使徒 1章

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」(1:8)

私たちはイエス・キリストの証人となるように召されています。

この地上でキリストを証言する使命があります。

キリストの証言者としての生涯であるためには力が必要です。

だからイエス様は弟子たちに言われました。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(4節)

私たちは聖霊を待望する必要があります。

なぜなら、聖霊の力が必要だからです。

聖霊の力を受けるために、弟子たちは、心を一つにして祈っていました。

共に集まり、祈る中で、彼らは聖霊の力を受けました。

一度力を受けたら大丈夫という話ではありません。

この後、使徒たちは何度も聖霊に満たされる体験をします。

私たちは何度も聖霊の力に満たされる必要があります。

心を一つにして、祈り続けましょう。

詩篇 150篇

「タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。弦をかき鳴らし笛を吹いて、神をほめたたえよ。」(150:4)

主を賛美することは神の命令です。

歌を歌うだけでなく、楽器とその演奏も不可欠だったことが今日の箇所からも分かります。

ある学者は今日の詩篇では賛美を捧げる理由が具体的に示されていないと指摘します。

しかし私たちは何よりも、神が神であるがゆえに賛美を捧げる必要があります。

神の力ある御業をほめたたえよ。神の壮大な偉大さをほめたたえよ。」(MSG)

神への賛美は満ち足りた人々による感謝とは限りません。

もろ手をあげて神をたたえられるような状況ではないかもしれません。

しかし、神を信頼するがゆえに私たちは賛美をささげるように命じられています。

賛美は信仰の世界に属するものだからです。

ビックマックセット

先日ニュースでアメリカのインフレと日本への影響について報道していたのですが、アメリカではいま、マックのビックマックセットが一五〇〇円と聞いて仰天しました。

円安も続いているためHOPの支援金を送るタイミングが難しく理事会でも悩んでいます。

私たちにとって身近な食料品もじわじわと値上がりし、最近ではガソリンを満タンにすることも出来なくなってしまいました。

コロナが収束すれば回復すると思っていた経済が、ロシアのウクライナへの軍事侵攻によって不安定になった世界の中で、未来が描けないほどに人々を不安へと駆り立てています。

神様を抜きにしてこの世界を見るならばまさに「絶望」だと思います。

全ての快楽と富を享受しつくしたソロモンは最後にこう警告しています。

『あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。禍の日が来ないうちに、また、「何の喜びもない」という年月が近づく前に(伝道者の書12:1)。』

『結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとって全てである(伝道者の書12:13)。』

心にとめるべき御言葉だと思います

(小山晶子牧師夫人)

詩篇 149篇

「主はご自分の民を愛し、貧しい者たちを救いをもって装われる。」(149:4)

「貧しい者たち」と訳された単語は「虐げられた者たち」、被抑圧者たちと訳すことができ、ここでは、イスラエルの民のことを指しています。

月本先生が、マタイ5:5の「柔和な者」が塚本訳で、「(踏みつけられて)じっと我慢している人たち」と訳していることを紹介し、ここにその意味合いが汲まれていると指摘しています。

イスラエルの歴史は、踏みつけられてじっと我慢の連続でした。

しかし、神はそんなイスラエルの民を装われる、輝かせると約束します。

マイナスは必ずプラスになります。

だから詩人は

ハレルヤ。新しい歌を主に歌え。」(1節)

と命じます。

「神の高き聖なる賛美が彼らの口を満たす。彼らの叫ぶ賛美は彼らの戦いの武器だから。」(六節TPT)

私たちの武器は賛美です。

「ハレルヤ」と賛美の歌声を上げましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

本日は父の日。すべてのお父さんに感謝します。

詩篇 148篇

「火よ。雹よ。雪よ。煙よ。みことばを行う激しい風よ。」(148:8)

私たちは主を賛美するために存在しています。

聖書は言います。

「後の世代のために このことは書き記されねばならない。「主を賛美するために民は創造された。」」(詩篇102:19新共同訳)

ただ、私たちはこのことも覚えておく必要があります。

それは、「みことばを行う激しい風よ。」とあるように、神のみことばが行われるために、激しい風のような試練があるということです。

御言葉を成し遂げる嵐よ」(新共同訳)

とあるように、嵐のような状況で、神の約束が成し遂げられるということがあるということです。

ですから、私たちはどんな時でも賛美することを学ぶ必要があります。

「主をほめたたえよ」と賛美をすること(ハレル)が命令形なのはそのような理由があると考えられます。

詩篇 147篇

「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。」(147:1)

賛美の歌を歌うことは良いこと(トーヴ)です。

楽しいこと、喜ばしいことです。

なぜなら、主なる神は私たちの賛美を受けるのにふさわしいお方だからです。

人は腕力で神を振り向かせることはできません。

10節をL Bではこう訳しています。

「どんなに足の早い馬でも、神から見れば、歩みの遅いかたつむりと同じです。どんなに腕力を誇る人でも、神からすれば、赤ん坊の手をねじ伏せるより簡単なのです。」

神が注目されるのは、神を畏れ、神に賛美の歌を歌う人です。

「神を畏れる人たちは神の注目を得ます。彼らは神の強さに頼ることができます。」(11節MSG)

詩篇 146篇

「幸いなことよ、ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く人。」(146:5)

この詩篇は神以外の何かに頼ることのむなしさが記されています。

『人の助けをあてにしてはいけません。どんなに偉大な指導者も、頼りにはならないのです。人はみな死ぬ運命にあるからです。呼吸が止まり、いのちの火が消えた瞬間に、その人の人生の計画は、すべて無になるのです。』(3,4節LB)

わたしたちは「誰か」や「何か」に安心や安定を求めようとします。

しかし、しばらくするとそれらが万能ではないことに気づき、幻滅してしまうこともあります。

神は私たちが神以外の何かに信頼している時、その「なにか」を取り去ってしまうことがよくあります。

詩篇の中で、繰り返し神に信頼することを語っている背景には、イスラエルの民がなかなかそのような生き方をすることができなかったことが挙げられると思います。

失敗しながら、神にのみ信頼することを学びます。

詩篇 145篇

「私の口が主の誉れを語り、すべて肉なる者が聖なる御名を、世々限りなくほめたたえますように。」(145:21)

この詩篇はヘブル語のアルファベット順に始まる「アルファベット詩」です。

18節をメッセージ訳ではこう訳しています。

「神はそこにおられる。祈るすべての人のために。本気で祈っているすべての人のために。」

祈りは単なる気休めではありません。

本気で祈る、その祈りに神が答えてくださることを私たちは体験します。

後のユダヤ教においてこの詩は日毎の賛美の祈りに用いられたと言います。

タルムードには、この詩を日に三度口にする者には、来るべき世界で神の子となることが約束されています。

興味深いことは、「主の祈り」と通ずる面がこの詩にあることです。

「聖なる御名を世々限りなくほめたたえますように。」(21節)は「御名があがめられますように」(原意は「御名を聖とする」)と重なります。

毎日、主の祈りを祈ることをお勧めします。

 

天にまします我らの父よ

願わくは御名をあがめさせたまえ

御国を来たらせたまえ

みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ

我らの日用の糧を今日も与えたまえ

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく

我らの罪をも赦したまえ

我らを試みにあわせず悪より救い出したまえ

国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり

アーメン

 

詩篇 144篇

「主は私の恵み、私の砦、私のやぐら、私の救い主、私の盾、私の避け所、私の民を私に服させる方。」(144:2)

ダビデはイスラエルの国の王でした。

しかし、その権威は神から来ることを認識していました。

LBではこのように訳しています。

「いつも恵み深く、愛を注いでくださる主は、私の要塞であり、びくともしないやぐらです。私を救ってくださる神は、盾となって立ちはだかってくださいます。こうして、神は民を私に服従させてくださるのです。」

そして、永遠の神に対して、有限な人の儚さをダビデは歌います。

「人は息にすぎず、その日々は影のように過ぎ去ります。」(4節)

しかし、聖書は死んだら終わりだとは言いません。

イエス・キリストは死の力を打ち破り、復活され、永遠のいのちがあることを示されました。

聖書は言います。

「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)

詩篇 143篇

「あなたのしもべをさばきにかけないでください。生ける者はだれ一人、あなたの前に正しいと認められないからです。」(143:2)

神は義なる神であり、誰ひとり、神の前では正しいと認められる人はいません。

だからLBではこのように訳しています。

「私を裁判にかけないでください。あなたほど完全なお方はいないのですから。」

聖書は明確です。

「義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)

だから、詩人の祈りは「あなたの真実と義によって私に答えてください。」(1節)

私たちの希望は、自分ではなく、神の真実、神の義にあります。

カルバリの十字架に現された神の真実、神の義にあります。