黙示録 15章

「彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。「主よ、全能者なる神よ。あなたのみわざは偉大で、驚くべきものです。諸国の民の王よ。あなたの道は正しく真実です。」(15:3,4)

モーセはエジプトで奴隷生活を送っていたイスラエルの人々を解放した指導者です。

子羊はイエス・キリストを指しています。

モーセの歌は出エジプト15章、小羊の歌は黙示録5章に記録されていると言われています。

モーセの歌は聖書における最初の歌で小羊の歌は最後の歌です。

モーセの歌は紅海で歌われ、小羊の歌はガラスの海で歌われます。

モーセの歌は守りの歌で、小羊の歌はあがないの歌です。

モーセは、旧約聖書の代表であり、小羊であるキリストは、新約聖書の代表です。

ですから、モーセの歌と子羊の歌は、いつの時代でも、私たちが歌うように与えられた歌とも言えます。

それは、神がどのようなお方であるか、その告白の歌です。

どんな状況でも私たちは神の偉大さを歌います。

黙示録 14章

「雲の上に座っておられる方が地上に鎌を投げると、地は刈り取られた。」(14:16)

これはこの世の終わり、最後の審判の前に起こる大戦争を指していると言われます。

旧約聖書のヨエル書にも同じ内容が出てきます。

諸国の民は立ち上がり、ヨシャファテの谷に上って来い。わたしがそこで、周辺のすべての国々をさばくために、座に着くからだ。鎌を入れよ。刈り入れの機は熟した。来て、踏め。踏み場は満ちた。石がめはあふれている。彼らの悪がひどいから。判決の谷には、群衆また群衆。主の日が判決の谷に近づくからだ。」(3:12-14)

沢村五郎師はこう言います。

「神を離れた人類はただ自分のためにのみ生きようとします。自らが生き、得、栄えるために、自分と対立する相手を倒そうとして戦争と闘争を繰り返してきました。人類の歴史は争いの歴史です。地上の最後の歴史は戦争をもって終わるのです。」

人は皆「判決の谷」に立ちます。

黙示録 13章

「ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。」(13:18)

「666」は何を意味しているのか?

いろいろ勝手なことを言う人がいますが、これは「不完全数の羅列」です。

完全数の羅列ならば、「777」になります。

7は神を指し、三つ並べることによって、完全な三位一体の神を思い出させます。

沢村五郎師は「制限された不完全数」と言います。

「患難の中にある時、しばしばそれが永遠に続くもののように感じられるものですが、悪の力は必ず666です。」

「獣の数字を数えなさい」と言いますが、偽預言者がどんなに力ある存在に見えたとしても、666、「制限された不完全なものである」ということを忘れてはいけないということです。

その人が誰であるかを知るためではなく、その獣も人間であり「制限された不完全なもの」であることを知ることができるように、数えなさいと言っているのです。

黙示録 12章

「私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。」(12:10)

サタン、その名前の意味こそ「告発者」、責める者です。

サタンは私たちの弱さを知っていて、いつまでも過去の失敗に引きずられるように、私たちの思いを支配しようとします。

イエス様は私たちが解放されるように、私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。

私たちは、サタンに惑わされないように、思考を転換する必要があります。

心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)

「心」と訳された単語は、「思考」「考え方」という意味です。

み言葉を蓄え聖書の考え方に転換する必要があるということです。

黙示録 11章

「それから、天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた。」(11:19)

「天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた」というのは、旧約聖書では考えられない内容です。

旧約聖書では、年に一回だけ、大祭司だけが、いけにえを携えてのみ見ることができた光景でした。

契約の箱が意味しているのは、もちろん、神と人との契約、約束です。

「神の約束は永遠に変わらない」ということを意味しています。

つまりこの箇所が言いたいのは、神は、私たちの王となることを通して、私たちに祝福を注ぎだす機会をひたすら待っておられるということです。

私たちが、神を自分の人生の王として認めることを通して、神は、王として私たちを祝福されます。

また、神の神殿が開かれたということは、神との交わりを意味しています。

天は今、開かれています。

二郎のかおり

マイペースな次男はほとんど怒ることがないのですが、ときどき「これはやめてほしい」と家族に言ってくることがあります。

そのひとつに「ラーメン二郎のニンニク増しましは食べないでくれ」という長男への要求です。

二日前、次男の気持ちがよーくわかりました。

長男が歩くところどこもかしこも強烈なニンニクのにおいが残っているのです。

さてはあれを食べたね、、、。

これで電車に乗ったなんて、、、

まさにニンニクのにおいが駄々洩れ状態です。

本人がそこにいなくてもいたことが分かるほどの残り香。
でも、考えさせられたことが一つ。

これほどの強烈な香りをキリスト者として残せているだろうかということです。

いつかわたしたちがこの地上を去った時、残された人々がキリストの香りを感じることができるために、今何をするべきだろうか、と。

無臭じゃ悲しすぎます。

祝福、恵み、愛、平和、ゆるし、、、。

イエス様の内に歩む者としてそのような「良い」香りをたくさん残して地上の歩みを終えたいものです。

(小山晶子牧師夫人)

黙示録 10章

「天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造って、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。「もはや時は残されておらず、」(10:6)

ここに聖書の言う神の定義があります。

第一に「世々限りなく生きておられる方」です。

永遠のお方という意味です。

第二に、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造られたお方です。

創造主、造り主です。

ですから、聖書の定義によれば、すべての創造物は神ではありません。

創造した方が神です。

このお方にかけて誓ったというのは旧約聖書のダニエル書12章の内容が反響しています。

彼はその右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方にかけて誓った。」(7節)

神の時に、神の御業は成し遂げられます。

今日は主の日。ともに主なる神に礼拝を捧げましょう。

黙示録 9章

「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」(9:4)

大患難時代にキリスト者になった者たちに、特別な守りがあることが記されています。

神を愛する者に、神は守りを与えてくださっています。

サタンがそのことを神にこう訴えている箇所があります。

あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。」(ヨブ1:10)

神の特別な守り、神の特別な祝福が神を愛する者の上にあることを聖書は肯定しています。

神の印は、大患難時代にならなくても、全てのキリスト者に押されています。

気づいていなくても、キリストを信じる者には特別な守りがあります。

黙示録 8章

「それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。」(8:5)

ここに記されている「香」が意味しているのは、「祈り」です。

「香は聖徒たちの祈りであった。」(5:8)「地に投げつけた」という言葉が意味しているのは、「祈りが答えられた」ということです。

明らかに、「答えられた祈り」とは、今まで、積み重ねられてきた祈りです。

「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(4節)

とありますように、私たちの祈りは地に落ちることなく、神の御前に立ち上り続けています。

そして、神の時に、地に投げつけるように祈りは答えられます。

ですから、私たちはあきらめずに祈り続けることが大切です。

神は確かに聞いてくださっています。

捧げられた祈りは、神の時に、最善の答えで返ってきます。

黙示録 7章

「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」」(7:9,10)

4節から8節に出てくる十四万四千人は明らかにイスラエルの民のことを指しています。

数字は十二の倍数で象徴的です。

しかし、その後、白い衣を身にまとった群衆は、キリスト者を指しています。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(14節)

とあるように大患難時代にキリスト者になった殉教者たちのようです。

信仰のゆえに命を捨てたその犠牲を神は断じて軽く考えられることはありません。

「殉教者の血は教会の種」と言われますが、神は無駄にされることはありません。