使徒 21章

「彼が聞き入れようとしないので、私たちは「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐんだ。」(21:14)

当時のキリスト教会にとって使徒パウロの異邦人伝道の働きは、さらに発展が見込めるものでした。

ところがパウロは、もっとも危険な場所、エルサレムに行こうとしていました。

ですから仲間たちはパウロを止めようとしました。

「どうして、エルサレムに行こうとするのですか?教会はあなたを必要としているではないですか。あなたを歓迎する場所があるのに、どうして、あなたに危害を加えようとしている人たちのところに行こうとするのですか?」

パウロは言います。

「問題は彼らが私に何をするかではない。私の主、イエスが、私の従順を通して何をなされるかだ。」

私たちは状況ではなく神を中心に生きる必要があります。

時として、信仰者のあるべき姿は、「主のみこころがなりますように」と言って、口をつぐむことです。

使徒 20章

「今私は、あなたがたを神とその恵みのみことばにゆだねます。みことばは、あなたがたを成長させ、聖なるものとされたすべての人々とともに、あなたがたに御国を受け継がせることができるのです。」(20:32)

パウロの惜別説教が記されていますが、ここにパウロの「みことば信仰」を見ることができます。

聖書の御言葉が、私たちを成長させ、強くします。

メッセージ訳ではこう訳しています。

今、私はあなたを神に委ねます。私たちの素晴らしい神に。神の恵みの言葉は、あなたを神の望む姿に変え、この聖なる友人たちの共同体の中であなたが必要としているすべてのものを与えることができます。

私たちが必要としているすべてのものが神の御言葉の中にあります。

ですから、私たちは聖書全体を余すところなく学び続ける必要があります。(27節参照)

偽教師が忍び込み、群れを荒らし回る危険があります。

ですから、しっかりと聖書を学ぶ必要があります。

使徒 19章

「パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が彼らに臨み、彼らは異言を語ったり、預言したりした。」(19:6)

パウロがエペソに来て、何人かの弟子たちに出会った時、何か違和感を感じたのでしょうか、パウロはこんな質問をしました。

信じたとき、聖霊を受けましたか」(2節)

それに対する応答は、

いいえ、聖霊がおられるのかどうか、聞いたこともありません

でした。

さらに、ヨハネのバプテスマを受けたと言う話だったので、主イエスの名によってバプテスマを授けるのですが、その後、パウロは手を置いて、聖霊を受けるように祈ります。

聖書の神は、父、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神です。

イエス・キリストを信じる時、聖霊が信じる者の内に住われます。

そして、求めるならば、聖霊に満たされます。

イエス様が約束された助け主である聖霊が存在することも聞いたことがないと言うのは残念なことです。

聖霊を求めましょう。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

使徒 18章

「その後、パウロはアテネを去ってコリントに行った。」(18:1)

パウロはギリシア哲学の中心地、アテネを去りコリントに行きました。

その時の様子をこのように説明しています。

兄弟たち。私があなたがたのところに行ったとき、私は、すぐれたことばや知恵を用いて神の奥義を宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、しかも十字架につけられたキリストのほかには、何も知るまいと決心していたからです。あなたがたのところに行ったときの私は、弱く、恐れおののいていました。そして、私のことばと私の宣教は、説得力のある知恵のことばによるものではなく、御霊と御力の現れによるものでした。それは、あなたがたの信仰が、人間の知恵によらず、神の力によるものとなるためだったのです。」(1コリント2:1-5)

パウロは哲学者たちとの議論を通して人間の知恵ではなく、神の力ということを学んだのだと思います。

使徒 17章

「そして、「キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならなかったのです。私があなたがたに宣べ伝えている、このイエスこそキリストです」と説明し、また論証した。」(17:3)

パウロはテサロニケのユダヤ人会堂で、「聖書に基づいて彼らと論じ合った。」(2節)と言います。

聖書に基づく議論も聖書的な伝道方法の一つです。

パウロが説明し、証明しようとしたことは二つあります。

一つは、聖書が約束するメシア(キリスト)は、苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければなかったということです。

これはエゼキエル書37章後半に出てくる彼らの王となる主のしもべダビデ(37:25)のことと考えられます。

37章の前半は枯れた骨が生き返る幻なので、メシアは死者の中からよみがえらなければならないことを示唆していると考えられます。

そして証明しようとしたもう一つのことは、イエスがそのメシアだと言うことです。

使徒 16章

「パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニアに渡ることにした。彼らに福音を宣べ伝えるために、神が私たちを召しておられるのだと確信したからである。」(16:10)

使徒の働きの著者ルカはこの箇所からパウロたちの宣教旅行に加わったと考えられます。

なぜなら、主語がこれまで「彼ら」(三人称)だったのが「私たち」(一人称)に変わるからです。

興味深いことは、ここに至るまでパウロたちは何度も聖霊に禁じられて軌道修正をしなければならなかったということです。

私たちの思い通りに物事が進まないことは必ずしも悪いこととは限りません。

聖霊が禁じられることには意味があります。

聖霊の導きに従ったパウロたちは、ルカという強力な旅の仲間と出会うことができました。

そして、このマケドニアからヨーロッパ宣教が開始されます。

目の前の扉が閉じる時、それは、新しい扉が開かれる時です。

使徒 15章

「『その後、わたしは倒れているダビデの仮庵を再び建て直す。その廃墟を建て直し、それを堅く立てる。それは、人々のうちの残りの者とわたしの名で呼ばれるすべての異邦人が、主を求めるようになるためだ。─昔から知らされていたこと、それを行う主のことば。』ですから、私の判断では、異邦人の間で神に立ち返る者たちを悩ませてはいけません。」(15:16―19)

初代教会が決めたこと、それは、異邦人に対して難しくしないということでした。

その理由は、神が「倒れているダビデの仮庵を再び建て直す」という預言が成就したからだと言います。

その真意はローマ書1章に見ることができます。

この福音は、神がご自分の預言者たちを通して、聖書にあらかじめ約束されたもので、御子に関するものです。御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活により、力ある神の子として公に示された方、私たちの主イエス・キリストです。

使徒 14章

「皆さん、どうしてこんなことをするのですか。私たちもあなたがたと同じ人間です。そして、あなたがたがこのような空しいことから離れて、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造られた生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えているのです。」(14:15)

バルナバとパウロの宣教活動を通して人々はバルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼び、「神々が人間の姿をとって、私たちのところにお下りになった」と、いけにえを捧げようとしました。

創造主なる神を知らない人は、何でもかんでも神々にしてしまう傾向があります。

しかし、聖書はそのような試みを完全否定します。

人が神になることはできません。

神は神、人は人です。

この世界で唯一、神が人となられたのは、子なる神、イエス・キリストだけです。

福音を宣べ伝えることは、偽物の神々から、創造主なる本物の神に立ち返る(方向転換する・悔い改める)ように求めることが含まれています。

使徒 13章

「さて、アンティオキアには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどの預言者や教師がいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。そこで彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いてから送り出した。」(13:1-3)

アンティオキアはシルクロードの出発点として知られる国際都市でした。

この地域の教会が宣教拠点として用いられたことに神の摂理を見ることができます。

注目すべき点は、宣教のはじまりが礼拝だったことです。

主に礼拝を捧げる中で、聖霊が宣教のビジョンを与え、祈りをもって、教会が宣教師を遣わします。

ですから、まず何よりも礼拝者であることが求められています。

主に礼拝を捧げる中で、聖霊が世界宣教のビジョンを与え、教会は祈りによって送り出します。

使徒 12章

「こうしてペテロは牢に閉じ込められていたが、教会は彼のために、熱心な祈りを神にささげていた。」(12:5)

初代教会のリーダーの一人ヤコブが殺され、もう一人のリーダーペテロも逮捕されてしまいました。

当時の教会は人に頼ることも、お金に頼ることもできませんでした。

権力に頼ることも、政治力もありませんでした。

何も出来ないもどかしい状況の中、教会は熱心に祈り続けました。

そして、神は彼らの熱心な祈りを用いて奇跡を起こされました。

教会は祈りの共同体(コミュニティ)です。

祈りなくして教会はありません。

「熱心」と訳された単語は、

「たゆまず、根気よく、切に」

という意味もあります。

私たちは人にはできないことも、神にできないことはないことを信じ、祈り続ける姿勢を大切にしたいと思います。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。