マルコ 11章

「また、祈るために立ち上がるとき、だれかに対し恨んでいることがあるなら、赦しなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの過ちを赦してくださいます。」(11:25)

効果的な祈りをするためには、誰かに対して恨んでいることがあるなら、赦す必要があります。

憎しみを棄てる必要があります。

神がイエス・キリストの十字架の御業のゆえに自分のことを赦してくださったことを真剣に受け止め、赦しに生きる必要があります。

その時、私たちは効果的な祈りの生活を送ることができます。

私たちはイエス様の御名によって祈ります。

そもそもイエス様が赦してくださったように赦すことができなければ、どうして、イエス様の御名によって祈ることができるでしょうか。

イエス様はこのように祈るように教えられました。

「私たちの罪をお赦しください。私たちも、私たちに罪を犯す者を赦しました。」(マタイ6:12LB)

マルコ 10章

「イエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神は違います。神にはどんなことでもできるのです。」」(10:27)

弟子たちの

「それでは、だれが救われることができるでしょう。」

という問いに対するイエス様の答えが

「神にはどんなことでもできるのです。」

でした。

つまり、

救いは人間の業ではなく神の恵みの世界であるということです。

人はどんなに努力して修行をし、善行を積んでも、救いの基準に到達することはできません。

それは人にはできないことです。

しかし、神にはできます。

神は、ひとり子、イエス・キリストを与えてくださり、信じる者を救う道を開いてくださいました。

神にはどんなことでもできるということを、私たちはイエス・キリストの十字架と復活に見ることができます。

人にはできないことも神にできないことはありません。

今日は主の日。ともに主に礼拝を捧げましょう。

マルコ 9章

「するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」」(24節)

私たちは、様々な壁にぶつかり、困難に直面し、辞めたくなる時があります。

逃げ出したくなる時があります。

しかし、膝をかがめ、

「信じます。不信仰な私をお助けください。」

と祈り、

叫ぶ中で、

不思議と不可能に思えたその山を登っている自分に気づくことがあります。

信仰生活というのは、残念ながら、楽なものではありません。

段々、楽になっていくというものでもありません。

年々、神様からの新しい力が必要であることを感じます。

使徒パウロは、晩年、弟子のテモテにこう言いました。

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」(Ⅱテモテ4:7)

「信仰は守り通すものなのだ」と、次世代のテモテを、パウロは諭します。

この手紙を読んだテモテは、こう祈ったかもしれません。

「主よ!信じ続けます。不信仰な私をお助けください。」

マルコ 8章

「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(35節)

メッセージ訳では今日の箇所をこのように訳しています。

自己啓発(セルフヘルプ)は、実際のところ助けにはならない。自己犠牲こそわたしの道、あなた自身を救い、本当の自分を見つける、唯一の道。

逆説的ですが、人は自分に固執すると行き詰まってしまいます。

自己啓発の問題はこの「私」中心の視点です。

人生は「私」が中心ではありません。

ですから、自分の内側を探ってみたところで、人生の目的を見出すこともできません。

「私」から出発する時、人生は迷宮入りします。

自己実現は人生の目的とはなり得ないからです。

私たちは、自分で自分を造ったわけではありません。

私たちは、神によって、神のために造られました。

ですから、神の目的のために人生を捧げる時に、自分が生きている意味を見出すことができます。

マルコ 7章

「そして天を見上げ、深く息をして、その人に「エパタ」、すなわち「開け」と言われた。」(34節)

指を両耳に差し入れ、唾をつけた手でその人の舌に触り、天を見上げて、深く息をして、「開け」と言ったとあります。

この一連の動作は、当時の人々にとって、特異ではない医療行為だったようです。

もっとも注目すべきは、イエス様が「「エパタ。」、「開け。」と言われた。」という箇所です。

イエス様の日常語、アラム語です。

初代教会で一般的に使用されていたのだと思われます。

原文は命令形ですが受動態です。

つまり、「開かれなさい!」。

神的受動態と呼ばれ、主語は「神」です。

「人にはできないことも神にはできる」という信仰をもって、初代教会の人たちは、「エパタ!」、「開かれなさい!」と祈っていたということです。

神は今も生きて、働かれておられます。

私たちの想定を超えて、素晴らしい御業をなされる方です。

私たちも信仰をもって、「エパタ!」と信仰の宣言をしましょう!

マルコ 6章

「イエスは舟から上がって、大勢の群衆をご覧になった。彼らが羊飼いのいない羊の群れのようであったので、イエスは彼らを深くあわれみ、多くのことを教え始められた。」(34節)

群衆をご覧になったイエス様は、岩波訳では

腸(はらわた)のちぎれる想いに駆られた

と訳しています。

単に「かわいそう」に思ったというレベルではありません。

心の底からいたたまれない思いになったのです。

そのイエス様がされたことは「教え」ることでした。

教会がまず提供すべきことは、イエス様の教え、聖書のみことばを教えることです。

「神のことば」には力があります。

人がもっとも必要としているものは「神のことば」です。

「キリストのからだ」であるはずの教会が「神のことば」である聖書を教えなければ、どこが聖書を教えるのでしょうか?

はらわたのちぎれる想いに駆られて教えられたイエス様は、今もご自身のからだである教会を用いて、人々に聖書のみことばを教えられます。

マルコ 5章

「イエスはその話をそばで聞き、会堂司に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」」(36節)

「イエスはその話をそばで聞き」という箇所を、口語訳では「その話している言葉を聞き流して」、新改訳二〇一七の脚注では「無視して」と訳しています。

「現実」を直視することは大切なことです。しかし、イエス様は、時として私たちに「超現実」に生きることを求められます。イエス様は、ヤイロの娘が死んでしまった」という報告に対して、「聞こえないふり」をしました。そして、ただ、こう言われました。

恐れてはいけない。ただ、信じ続けなさい!
神の御業を体験するためには、時として「この世の常識」を聞き流して、ただ、イエス様を信頼する必要があります。

不信仰なことばを聞き流し、恐れずに、信仰の言葉、神のみことばに生きていくならば、必ず、神さまの栄光を拝する時が来ます。

見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むことができますように。

マルコ 4章

「夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。」(27節)

今日の箇所を直訳しますとこうなります。

寝て、起きて、夜で、朝で、種は芽を出し、成長する、どのようにしてかは、彼は分からない。

ユダヤ人の一日は日没から始まります。

ですから、起きる前に寝ます。

朝の前に夜なのです。

朝の前に夜が来るように、誰の人生にもマイナスに見える出来事は、必ず起こります。

しかし、それは悲劇の始まりではなく、神の御業の始まりです。

マイナスは必ずプラスになります。

どのように成長するかは分かりません。

どのようにプラスになるかは分かりません。

しかし、神はすべてのことを働かせて益として下さるお方です。

イエス様はご自身のガリラヤでの働きを「小さな始まりだとさげすんではならない」と警告しました。

私たちは神の働きを過小評価してはいけません。