箴言 5:15-23

「人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。」(5:21)

結婚生活の祝福は、排他性の中にあるというのが聖書の教えです。「あなたの水ためから、水を飲め。」「それを自分だけのものにせよ。」というのは、そのような意味です。不貞は悲劇をもたらします。ヘロデ王の不貞の罪がバプテスマのヨハネの殺人へと導いたことを私たちは忘れてはいけません。隠すことはできません。「主はその道筋のすべてに心を配っておられる」からです。もっとも、主が「その道筋のすべてに心を配っておられる」という事実は、三つよりの糸(伝4:12)としての役割を果たされるということでもあります。主を結婚生活の中心に歓迎するならば簡単には切れません。

詩篇 24:1-10

「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王がはいって来られる。」(24:9)

ダビデは、神の臨在を象徴する契約の箱が、エルサレム神殿に入ってくることを意識して、この詩を書いたと思われます。しかし、これはまた預言的な意味を含んでいると思われます。イエス・キリストがロバの子に乗ってエルサレムに入城されたことを、預言していたのだと思われます。さらに、聖書の最後の部分で、イエス・キリストはこう言われました。

「しかり。わたしはすぐに来る。」(黙示録22:20)

イエス・キリストは再び、この地に来られると約束されました。メッセージという訳では今日の箇所をこう訳しています。

「目を覚ませ、寝ぼけている町よ。目を覚ませ、寝ぼけている人々よ。栄光の王が入ってくる準備は整った。」

その日は遠くありません。

詩篇 23:1-6

「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(23:1)

誰が自分の人生の羊飼いであるかはとても重要です。キリストは言いました。

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ10:27)

私たちが、日々の生活の中で優先的に耳を傾け、その後についていっている存在が私たちの人生の羊飼いです。それは、人とは限りません。ある種の哲学や思想、また、富や名誉などの可能性もあると思います。イエス・キリストは言います。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」(ヨハネ10:14新共同訳)

イエス・キリストが自分の羊飼いであるならば、乏しいことはありません。なぜなら、キリストは私たちのことを気にかけ、導いてくださる良い羊飼いだからです。

詩篇 22:22-31

「彼らは来て、生まれてくる民に、主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」(22:31)
新約聖書は、イエス・キリストが1節の
「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」
を引用されたことしか記録していません。しかし、詩篇を讃美歌として歌っていたユダヤ人には、この賛美がどのような歌詞で終わるか知っていたはずです。「主が義を行われた」という勝利宣言は、まさに十字架が意味していたことであり、イエス・キリストの最後のことば、「完了した」に通じます。
「地の果て果てのすべての者が、思い起こし、主に帰って来ますように。国々のあらゆる部族も、あなたの御前にひれ伏しますように」(27節)
という祈りは、イエス・キリストの十字架と復活によって成就しました。私たちはイエス・キリストの十字架の御業を告げ知らせる使命があります。

箴言 5:1-14

「他国の女のくちびるは蜂の巣の蜜をしたたらせ、その口は油よりもなめらかだ。しかしその終わりは苦よもぎのように苦く、もろ刃の剣のように鋭い。」(5:3‐4)

誘惑は、サタンが人間を滅びへといざなう常とう手段ということです。まるで良いものであるかのように私たちを誘惑しながら、最後は永遠の滅びへと落とすのです。どのようにして、わたしたちはこのサタンの罠を見分けることができるのでしょうか。自分は大丈夫だと軽く見ないで、誘惑に近づかないことが第一です。(8節)なぜなら、結果的に必ず後悔することになるからです。(11節)失うものを考えるならば、その価値はないことは明らかです。今まで築き上げてきた尊厳も労苦の実も、皆、失うことになってしまいます。だから、私たちは日々、聖書のみことばに耳を傾ける必要があります。

おふろのでんき

浴室の電気が点滅するようになり、急遽電球を交換することになりました。前回いつ交換したか、忘れてしまうほど時間が経過していたので気付かなかったのですが、長期間かなり薄暗い中で浴室を使っていたようです。というのも今回はLED電球に替えたのですがまあ汚れが良く見えること、見えること。我が家の浴室は窓がないので、明かりは電気に頼るしかありません。あっちもこっちも気になり、掃除に励んでいます。そしてキレイになればなるほど、小さな汚れが気になります。ほんとうに、まるでイエス様の光に照らされた心の中を見ているようでした。イエス様から離れれば離れるほど心の汚れには気付きにくくなり、イエス様に近づけば近づくほど心の汚れがはっきりと見えていく。光に照らされたときはぎょっとしますが、照らされたことでよい部分がもっと輝いて見えることにも気づきました。イエス様から離れると、自分の「良さ」までくすんで見えてしまうのですね。セルフイメージが低くなっているときにも、この気づきは有効だと感じています。    (小山晶子牧師婦人)

詩篇 22:12-21

「私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。」(22:21)

詩篇22篇は、イエス・キリストが十字架の上で一節を引用しただけでなく、預言として十字架の上で成就します。14、15節の

「私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。」

は、ヨハネの福音書19:28で成就します。

「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」

と言われた。」18節の

「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」

は、ヨハネ19:23、24

「それは、「彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた。」という聖書が成就するためであった。」

イエス・キリストは、救いの御業を成就するために、十字架にかかり死んでくださいました。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

詩篇 22:1-11

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。」(22:1)

詩人の体験からも神の不在を感じることは、今も昔も変わらないことを私たちは学びます。信じていても見捨てられたように感じることがあります。賛美を捧げていても疑いをもってしまうことがあります。聖書を読んでいても、暗闇を感じてしまうことがあります。イエス・キリストが十字架で救いの御業を成し遂げる時、この祈りを捧げました。キリストがこの箇所を賛美されたことを通して、私たちは今、不在と感じるその所に、神は確かに存在され、神の御業が確かに成し遂げられていることを知ることができます。逆境は、神が私たちを見捨てられたということではなく、このことを通して神の栄光が現わされるということです。暗闇の中で賛美するなら「イスラエルの賛美を住まいとしておられます。」(3節)を体験します。

詩篇 21:8-13

「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」(21:13)

私たちの信じている神は、力ある神です。究極的な権威と力は神にあり、最終的に神はすべてを裁かれ、正されます。どんな計略をめぐらしても、神に対抗する力はありません。LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「ああ主よ、この賛美をお受けください。御力を賛美しているのですから。私たちは主の力強いみわざをたたえて、賛美の歌を歌いましょう。」

私たちは神の力強いみわざを歌うように促されています。神の御力をたたえて、賛美の歌を歌うことは、聖書が教えていることです。

箴言 4:20-27

「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。」(4:25)

私たちの目が何を見ているかは、とても重要です。多くの場合、私たちが見ているものが私たちが得るものです。ですから私たちは何を見るか気をつける必要があります。イエス様も言われました。

「からだのあかりは目です。それで、もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなでしょう。」(6:22,23)

聖書はまた、

「前方を見つめ」

るように言います。私たちは前向き、肯定的、信仰的な姿勢が大事です。後ろ向き、否定的で、前を見ていないならば前に進むことはできません。使徒パウロも言います。
「ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、…目標を目ざして一心に走っているのです。」