2歴代誌 18:28-21:3

「それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。『主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。』彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。」(20:21,22)

この世の常識では考えられないことがここに記されています。戦争で、兵隊の前に聖歌隊を歩かせるという戦略は聞いたことがありません。しかしこの戦略が、私たちが今、現実に直面している霊的な戦いの中では重要です。霊的な戦いの最前線は賛美です。私たちが賛美を神にささげる時、神の御手が動き、敵をけちらします。ですから、賛美はとても大事なのです。サタンは神への賛美を妨げようとします。ですから、賛美の歌声を神にささげ続けましょう。

「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」

2歴代誌 16:1-18:27

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(16:9)

主は、今も、あまねく全地を見渡しておられます。主は、ご自身の力をこの地にあらわしたいと願われておられるのです。イエス様がこの地上におられた時に、たくさんの御業をなされたように、今も、私たちの世界に、ご自身の御業をなしたいと願っておられるのです。神はなぜか、人を用いてご自身の力を現すことを選ばれます。ですから、心がご自分とまったく一つになっている人を探しているのです。神と心を一つにするためには、へりくだって神のみことばを読む必要があります。神の心を、自分の心とするように、聖書を読む必要があります。少年サムエルが、

『お話しください。しもべは聞いております。』(Ⅰサムエル3:10新改訳2017)

と祈ったように、いつも主のみことばに耳を傾ける姿勢が大切です。

2歴代誌 13:1-15:19

「彼らは心を尽くして誓いを立て、ただ一筋に喜んで主を慕い求め、主は彼らにご自身を示されたからである。主は周囲の者から守って彼らに安息を与えられた。」(15:15)
LBでは、
「他のすべてにまさって主を慕い求め、主も彼らに自身を示したからです。」
と訳しています。聖書が私たちに教えていることは、私たちが他のすべてにまさって神様を慕い求めるならば、神様もご自身を示してくださるということです。賛美の中で、祈りの中で、また、神のみことばである聖書を読む中で、私たちは生ける神、イエス・キリストがご自身を示してくださるという世界を体験します。新約聖書にもこうあります。
「神のもとに来ようとする人はだれでも、神の存在と、熱心に神を求めれば神は必ず報いてくださることを、信じなければなりません。」(ヘブル11:6LB)
主を熱心に慕い求めるならば、主はご自身を示してくださいます。

2歴代誌 10:1-12:16

「実は、レビ人は自分たちの放牧地と所有地を捨てて、ユダとエルサレムに来たのである。ヤロブアムとその子らが、主の祭司としての彼らの職を解き、自分のために祭司たちを任命して、彼が造った高き所と雄やぎと子牛に仕えさせたからである。」(11:14、15)

北王国のヤロブアム王は、神が任命した祭司たち、レビ人たちを軽視しました。聖なるもの、神の領域を侵して、自分勝手に判断し、自分の都合のよいように、

「自分のために祭司たちを任命」

しました。このような自分勝手な信仰姿勢は、ヤロブアム王のようにどんどんとずれていきます。このような姿勢は新約聖書の中でも警告されています。

「というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」(2テモテ4:3,4)

雅歌5:1-8:14

「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。もし、人が愛を得ようとして、自分の財産をことごとく与えても、ただのさげすみしか得られません。」(8:7)

雅歌は、今から約二五〇〇年以上前に生きていたソロモン王が記したものと言われますが、興味深いことにこのころ既に「愛はお金で買えない」ことを知っていたことが分かります。しかも、ソロモン自身は栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることのできた人物でした。だからこそこのソロモンの言葉は説得力があります。現代に生きる私たちも愛を求めています。ギブアンドテイクの関係ではなく、そのままの自分を受け入れて欲しいという気持ちは昔も今も変わりません。しかし、『神は愛です』とあるように、そのような愛は神にのみ期待できるものです。三・一一の津波ですべてを押し流されてしまったある牧師は、この箇所から、大水も神の愛を消すことができませんと証しています。

台風と蜘蛛

先週、台風10号はずいぶん離れた場所に長時間停滞していましたが、横浜にもかなり強い風と共にスコールのような雨にも見舞われ、不安定なお天気に翻弄された一週間となりました。強風の中ふと目を上げると、お隣の屋根と教会の屋根とをまたいで大きな蜘蛛が巣を作っていました。風が吹くたびに蜘蛛の巣があおられ、今にも飛んでいきそうな様子です。まだ作りかけらしく、スカスカな部分もあるのですが、しっかりと張られた両側の蜘蛛の糸はしっかりとそれぞれの屋根にくっついていて、まるで風にあおられるハンモックのようでした。蜘蛛が大嫌いな私ですが応援したくなりました。先ほどその巣を見に行ったところ、さらにグレードアップし、太陽の光にキラキラと輝いていました。振り落とされないようにしっかりとしがみつく蜘蛛の糸のように、イエス様というぶどうの木にしっかりとつながっていたいと思いました。嵐の中で、日照りの中で、「しがみつく」こと。そんなことを蜘蛛の巣から教えてもらった夏の日の出来事でした。
(小山晶子牧師人)

雅歌 1:1-4:16

「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(1:3)

雅歌は「歌の中の歌」とも呼ばれますが、夫婦の愛の詩です。聖書は結婚という文脈の中において、夫婦がお互い求め合うことを大切にしています。しかし、それはまた同時に、エペソ五章にあるようにキリストと教会との関係として解釈することも大切です。
今日の箇所を新共同訳ではこう訳しています。

「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい。」

クリスチャンにとって、イエス・キリストの名前はかぐわしい名前です。

「イエス様!」

と名前を口にするだけで、幸せな気持ちになります。イエス・キリストとの人格的な関係があるならば、「イエス様」という名前は特別な名前だからです。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

2歴代誌 7:11-9:31

「実は、私は、自分で来て、自分の目で見るまでは、彼らの言うことを信じなかったのですが、驚いたことに、私にはあなたの知恵の半分も知らされていなかったのです。あなたは、私の聞いていたうわさを上回る方でした。」(9:6)

シェバの女王は、うわさ以上にすばらしいソロモンの知恵と事績に圧倒されました。しかし、イエス様は、こうおっしゃられました。

「南の女王が、さばきのときに、今の時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし、見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいるのです。」(マタイ12:42)

イエス様は、ソロモンよりもまさったお方です。私たちはイエス様のもとにシェバの女王のように地の果てから行く必要はありません。今、イエス様のもとに行くことができます。死を打ち破り、よみがえられ、今も生きておられるキリストは、キリストの教会におられます。

2歴代誌 5:2-7:10

「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」(5:13)

「雲」は神の臨在を意味します。賛美に満ち溢れた場所が、「雲で満ちた」、すなわち、神の臨在に満ち溢れたのです。神は賛美を住まいとされます。ですから、生ける神の臨在を体験できる場所は賛美の中です。「ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ」という箇所を見ますと、相当、騒々しい賛美だったことが伺えます。主の前に静まる時も大切ですが、元気よく騒々しく賛美を捧げる時も大切です。悪魔は私たちが神に賛美を捧げることを妨げようとします。神への賛美が満ち溢れている場所に、悪魔はいることができないからです。

2歴代誌2:1-5:1

「私が建てる宮は壮大な宮です。私たちの神は、すべての神々にまさって偉大な神だからです。」(2:5)

ソロモンは、自分ができる範囲で神の宮を建てるという発想はありませんでした。ヤハウェなる神は、すべての神々にまさって偉大な方だから、最高の宮を建てると言いました。そして、助けを求めました。私たちはソロモンのような姿勢が必要です。神の偉大さを認識しているのであるならば、自分の能力を超えるものを神に捧げる必要があるという姿勢です。自分だけではできないものを神に捧げる姿勢です。