使徒 24:1-27

「そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、と最善を尽くしています。」(24:16)

パウロの終末論ははっきりしていました。すべてのことが正される神の裁きの日が来ることを信じていたパウロは、

「いつも良心に恥じない生活を精一杯心がけて」(LB)

いました。もちろん、それは失敗しないということではありません。

「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

とあるように、罪を告白しつつ、最善を尽くして生きていくということです。もちろん、私たちはただ神の恵みによって救われます(エペソ2:8,9参照)が、それは、良心に恥じない生活を心がけなくていいという許可証ではありません。イエス・キリストの十字架の御業は、私たちがすでに良心に恥じない生き方をするためでもあります。

使徒23:12-35

「ところが、パウロの姉妹の子が、この待ち伏せのことを耳にし、兵営にはいってパウロにそれを知らせた。」(23:16)

パウロの家族に関する詳細は記されていませんが、少なくとも、パウロの姉妹の家族がこの時、ちょうどエルサレムに住んでいたことがわかります。そして、パウロを殺す陰謀を知った時、パウロの姉妹の子は何をすればよいか分かっていました。そのことをパウロに知らせたのです。神のみこころがいつもどのように導くかは私たちの想像を超えています。しかし、この子のように、原則として、祈りをもって行動することが求められます。危険が迫っているのを知ったならば防ぐことができるように。悪意があるならば、挫くことができるように。誘惑があるならば、立ち向かう力が与えられるように。もちろん、いつも、わたしの思いではなく、神のみこころがなるようにと祈りつつ行動する必要があります。神の御国が来ますように。

使徒 22:22-23:11

「その夜、主がパウロのそばに立って、「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしのことをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」と言われた。」(23:11)

使徒パウロは、キリストをもっとも信じて欲しかった同胞のユダヤ人たちに拒絶され、落ち込んだのだと思います。主がパウロの側に立って、彼を励ましました。

「エルサレムでは大変だったけれども、よくわたしのことをあかししてくれた。さあ、今度は、ローマでわたしのことをあかししなさい。」

神は過去を脇に置かせて、未来に目を向けさせました。私たちもパウロと同じように、仲間から拒絶されたり、見捨てられてしまうことがあります。しかし、主は私たちを見捨てることはありません。暗やみに囲まれたような時も、私たちのそばに立って、過去を脇に置かせ、未来に目を向けさせてくださいます。そして言われます。

「勇気を出しなさい。あなたの人生には目的があります。」

使徒 21:27-22:21

「そこで私が答えて、『主よ。あなたはどなたですか。』と言うと、その方は、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ。』と言われました。」(22:8)

使徒パウロは、長年の夢でもあった同胞への伝道のチャンスに、神学的論争ではなく、自分の個人的な体験、「証」を話しました。誰かにイエス・キリストのことを伝えるのに一番力強い方法は、イエス・キリストとの体験を語ることです。(ですから専門的な教育をうけてなくても伝道はできます。)イエス・キリストが自分の人生に何をし、何が変わったかを人々に語ることはインパクトがあります。誰も否定できないからです。パウロのポイントは三つです。

まず、彼がどういう人物であったか、彼の過去。

そして、彼の回心、彼の人生に神が介入されたこと。

最後に、これからのこと。神がすべての人に福音を伝えるように命じたことを話しました。

パウロのように、いつでも自分の証を語れますように。

そうだとおもったよ

予感はありました。先週の天気予報をニュースで見た時に、向こう一週間の天気に雨マークが一つもありませんでしたから。とはいうものの、例年よりかなり早めの梅雨明けに、紫陽花の花がなんだか気の毒になります。しかも先週の時点ですでにセミが鳴いていましたから、我が耳を疑いました。酷暑の夏になりそうな嫌な予感がしますが、私自身は梅雨の時期があまり好きではないのでちょっと喜んでいます。皆さんに毎年しつこく言って申し訳ないのですが、脱水症状には十分お気を付けください。水分と塩分の補給をお願いします。めまいや手のしびれなど感じた時はかなり進んでいると思うので吸収のいいスポーツドリンクを常備しておくのもいいかもしれません。それと同時に、信仰の脱水症状に陥らないようにも気を付けていただきたいと思います。症状としては否定的な考え、不安、恐れ、不機嫌な態度など。心当たりがあるなら、しっかりと信仰生活の栄養である御言葉を蓄えましょう。表に出てきているときは、症状がかなり進んでいる時だと思います。(小山晶子牧師夫人)

使徒 21:1-26

「彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに。」と言って、黙ってしまった。」(21:14)

当時のキリスト教会にとって使徒パウロの異邦人伝道の働きは、さらに発展が見込めるものでした。ところがパウロは、もっとも危険な場所、エルサレムに行こうとしていました。ですから仲間たちはパウロを止めようとしました。「どうして、エルサレムに行こうとするのですか?異邦人の教会はあなたを必要としているではないですか。あなたを歓迎する場所があるのに、どうして、あなたに危害を加えようとしている人たちのところに行こうとするのですか?」パウロは言います。「問題は彼らが私に何をするかではない。私の主、イエスが、私の従順を通して何をなされるかだ。」人の目よりも神のみこころを優先している人に対して、私たちは沈黙することを学ぶ必要があります。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!