マルコ3:31-4:29

「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。」(4:27)

今日の箇所を直訳すると、

「寝て、起きて、夜で、朝で、種は芽を出し、成長する、どのようにしてかは、彼は分からない。」

となります。ユダヤ人の一日は、日没から始まります。ですから、起きる前に寝ます。朝の前に夜なのです。朝の前に夜が来るように、誰の人生にもマイナスに見える出来事は必ず起こります。しかし、それは悲劇の始まりではなく、神の御業の始まりです。マイナスは必ずプラスになります。どのように成長するかは分かりません。どのようにプラスになるかは分かりません。しかし、神はすべてのことを働かせて益として下さる神です。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マルコ2:18-3:30

「そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」(3:14,15)

悪霊問題は人間としてあるべき生き方ができなくなるところにあります。ですから「悪霊を追い出す権威」とは、

「人間らしさの回復」

をもたらす権威です。「福音」は「神の御国」によって「人間らしさの回復」をもたらします。人はあたかも「自分が神」かのようにふるまうことによって、「人間らしさ」を失いました。ですから、人間性、「神のかたち」を回復できるように、イエス・キリストは私たちのために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。今、誰でもイエス・キリストを信じることによって人間らしさを回復することができます。弟子たちに、そして今、信じる者たちに与えられた権威は、キリストの十字架によって完成するこの「神の国」の権威です。

マルコ1:29-2:17

「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」」(1:41)

「わたしの心だ」

と訳された単語は、

「みこころ」

とも訳される単語です。

神のみこころは病気がいやされることです。

神ご自身がこう言われます。

「わたしは主、あなたを癒やす者だからである。」(出15:26新改訳二〇一七)

もちろん、それはヨブ記が示すように自分が何か罪を犯したから病気になっているという意味ではありません。イエス様もこう言っています。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現われるためです。」(ヨハネ9:3新改訳二〇一七)

ただ使徒ヨハネはこう書いています。

「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」(3ヨハネ2新改訳二〇一七)

私たちはイエス様のみこころを自分の思いとして病気の癒しのために祈っていきましょう。

マルコ1:1-28

「ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」」(14,15節)

イエス様が宣べて言われた福音とは、神の国、神の支配の時が来たから、神様に立ち返ってこの知らせを信じなさいということです。今こそ神を信頼し、神のメッセージに生きなさいと言われました。これは世界観の転換への呼びかけです。自分中心の世界観から、神中心の世界観へ転換しなさいと言われているからです。イエス様はまさに神の支配とはどういうことかを教えられました。数々の奇跡によって現わされました。神の国はすでに現わされました。そして、イエス・キリストが再び来られる時に、完全に現わされます。その日まで、私たちはすでに神の国の民として、まだ刷新されていないこの世界で生きることが求められています。

マタイ28:1-20

「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(19,20節)
十字架の死と復活によって、罪と死の呪いを退け、天においても、地においてもいっさいの権威を授けられたイエス様は、救いの御業の完成としてあらゆる国の人々で構成される教会を形成するように命じました。「弟子としなさい」と言うように、教会はイエス様の言葉に生きる神の民のことです。私たちは聖書のみことばの全体を守るように教えられる必要があります。ですから、教会の使命は宣教し、教えることです。教会は復活の主がいつも共にいる共同体であることを忘れるべきではありません。

マタイ27:45-66

「三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。」(46節)

イエス様の叫びは詩篇22篇の引用です。

「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」(1節)

詩篇22篇を読み進めますとこの詩が単なる嘆きの詩ではないことが分かります。詩人は言います。

「主は、私の絶望の底からの叫びをさげすまれなかった。背を向けて立ち去ることはなさらなかった。叫び声が届くと、主は助けに来てくださった。」(24節LB)

見捨てられたように思えたその場所に主は確かにおられ、私たちの絶望の底からの叫びを主は聞き、必ず助けに来てくださると言います。イエス様の十字架は絶望の底であると同時に希望の始まりでした。主は今、生きておられます。主は私たちの祈りに答えてくださいます。

マタイ27:11-44

「また、イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである。」と書いた罪状書きを掲げた。」(37節)

イエス様の罪状書きは

「ユダヤ人の王」

でした。まさにそれはイスラエルの民を代表して死なれたということです。神はイスラエルの民を諸国の民の光とするために選び、いのちとのろいの契約をしました。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。」(申28:15)

イスラエルの民は主の御声に聞き従わず、のろわれた者となり、諸国の民の光どころか捕囚の民となってしまいました。しかし、神のご計画はとん挫しません。イエス様が十字架でイスラエルの民を代表して、罪の呪いを受けてくださいました。ですから今、誰でも、イエス様を信じる者は罪に定められることはありません。

マタイ26:69-27:10

「「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。」(27:4)

イスカリオテのユダは、イエス様を裏切ったことを後悔しました。しかし、後悔先に立たず。祭司長、長老たちは、ただ冷たく、「自分で始末することだ」と言います。悪魔はまさにそのような存在です。人を誘惑し、誘惑に負けた人を冷たく自分で始末するように突き放します。しかし、神はこう言われます。

「わたしは誓って言う。―神である主の御告げ。―わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。」(エゼキエル33:11)

悔い改めて主に立ち返るならば、誰の人生にも希望はあります。
今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

マタイ26:47-68

「しかし、すべてこうなったのは、預言者たちの書が実現するためです。」(56節)

小河陽氏はこのように解説しています。

「イエスの使命は、究極的な義の確立としての神支配の樹立であり、受難と死は、この神の救いの計画を完成するために避けることのできない手段であった。(中略)彼の死は敗北の死ではなく、ユダヤ教祭儀の終焉をもたらし、全地を揺り動かし、聖徒に永遠の生命を得させるこの世の終わり、神の新しい始まりである。」

イエス・キリストの受難は旧約聖書が指し示したことの実現でした。神支配、神の御国がこの地に樹立するためには、イエス・キリストの受難、十字架の死と復活は避けることはできませんでした。

「今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(64節)

とイエス様がおっしゃられたのはそういう意味です。

マタイ26:31-46

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」(42節)

イエス様はまず

「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(39節)

と祈りました。しかし、

「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

という祈りに変わります。そして、弟子たちにこう言います。

「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(26:52-54)

イエス様は信仰者のあるべき姿を示されました。