1ペテロ 2章

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」(9節)

神が私たちを闇の中から光に召し出されたのは、私たちが神の御業を宣べ伝えるためです。イエス様はご自身を

「世の光」(ヨハネ8:12)

だと言われました。そして、キリストのからだである教会を

「世界の光」(マタイ5:14)

と呼ばれました。教会は、暗闇の中で生きる人たちが、キリストへの道を見出すための光となる必要があります。一人でも多くの人の道を照らす存在となる必要があります。教会の輝きは、あくまでもかしらであるキリストの輝きです。ですから、私たちはイエス・キリストを高く掲げる必要があります。イエス・キリストがまことの世の光だからです。

1ペテロ 1章

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」(6,7節)

試練を通るとき、神は私たちの自然な感情を否定されることはありません。悲しみにくれる時期があります。私たちは失望して苦しむこともあります。しかし、そのような嘆きの時は短く、その後、私たちは喜ぶことができるようになると聖書は約束します。ペテロは、本物の信仰は金よりも尊いものだと言います。金は不純物を除くために、火を通して精錬されます。同じように、神は私たちの人生における不純物を取り除くために火のような試練を許可されます。試練は私たちの信仰を成熟させます。神の働きを喜びましょう。

ヨエル 3章

「さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。」(14節)

英語の聖書(NKJV)では、「さばきの谷」を「決断の谷」(the valley of decision)と訳しています。この箇所は、この世界の終わりに関する預言です。すべての人は、やがて、この「決断の谷」に自分がいることに気がつきます。イエス・キリストについていくのか、それとも、拒絶するのか。それは、一人一人が決断しなければならないことです。心を尽くしてイエス・キリストを求める時は、今です。聖霊なる神様に満たされることを求める時は、今です。決断するのは今です。

「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(2コリント6:2)

「私は、イエス様についていく決断をしました。もう振り返りません。(I have decided to follow Jesus. No turning back.)」

今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう。

ヨエル 2章

「いなご、ばった、食い荒らすいなご、かみつくいなご、わたしがあなたがたの間に送った大軍勢が、食い尽くした年々を、わたしはあなたがたに償おう。」(25節)

神は私たちが失ったものを償ってくださる、回復してくださるお方です。ヨブは多くのものを失いましたが、最後にはこう記されています。

「主はヨブの繁栄をもとにかえし、そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」(ヨブ42:10口語訳)

また、イザヤ書にはこう記されています。

「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けたと。」(イザヤ40:2)

私たちの人生には様々な試練が存在します。しかし、その試練の先には、試練の倍の祝福が待っています。神は失われた年月を償われるだけでなく、その倍の祝福を与えてくださいます。

「だから、わたしたちは落胆しない。」(Ⅱコリ4:16口)

ヨエル 1章

「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちは後の世代に伝えよ。」(2,3節)

ヨエルは当時のイスラエルの国がどんなに混乱している状態にあるかを指摘します。そして、彼らが直面していたイナゴの大群における飢饉には、意味があることを伝え、悔い改めを呼びかけています。それだけではなくヨエルは、これらの問題を後の世代にも語り伝えるように命じます。私たちは成功を語り伝えたいと思います。しかし聖書は、正直に私たちの失敗を、そして失敗から学んだことを、次世代に伝えていくことが大事だというのです。まず、何をするべきかははっきりしています。

「あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ。」(14節)

私たちは教会に集まり、共に主に祈り叫ぶことが求められています。

ヤコブ 5章

「そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(18節)

17節に

「エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。」

とあるように、この箇所の背景には列王記第一のエリヤの話があります。列王記の箇所を見ると

「再び祈る」

という言葉には深い意味が込められていることが分かります。

「エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません。」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」」(18:42,43)

つまり、予兆が見えるまでエリヤは祈り続けたということです。私たちは祈っても何も起こらないとすぐあきらめてしまう傾向はないでしょうか。エリヤも私たちと同じ人です。私たちもあきらめずに祈りましょう。

ヤコブ 4章

「主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。」(10節)

自分があたかも神のように振る舞うことが、すべての問題の根源であるというのが、この章のメッセージです。わがまま、気ままにやりたいがゆえに、戦いや争いは起こると言うのです。ですから、まず、神の前にへりくだることが大事だと言います。神が良い時に、引き上げてくださるから、自分で自分を引き上げてはいけないと言うのです。引き上げるのは神の役割で、私たちの役割は、へりくだることだと言うのです。膝を屈めた人だけが、立ち上がることができます。神を神として認めることが大切です。神は言われます。

「正しくさばくことのできる方は、律法を定めた神おひとりです。神だけが、私たちを救ったり、滅ぼしたりすることができるのです。それなのに、あなたは何の権威によって人を裁いたり、批判したりするのですか。」(12LB)

ヤコブ 3章

「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり、また、あわれみと良い実とに満ち、えこひいきがなく、見せかけのないものです。」(17節)

「温順」という言葉は、あまり聞かない単語だと思います。国語辞典には、

「おとなしくすなおで、人にさからわないこと」

とありますが、LBでは、

「独善的でなく、人のことばに喜んで耳を傾けます」

と訳しています。ですから、

「穏やかな従順」、

もしくは、

「教えられやすい体質」、

「扱われやすい性格」

のことだと言う事ができると思います。神は私たちに純真、平和、寛容といった品性だけではなく、温順という品性を与えたいと願っています。私たちは学ぼうと思えば、すべての人から、すべての事柄から学ぶことができます。誰からも、何からも学ぶ「温順」の品性をもつことができるのならば、私たちの人生は、必ず豊かになります。

ヤコブ 2章

「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(13節)

英語の聖書では、今日の箇所をこのように訳しています。

「他者にあわれみをあらわしたことのない人にあわれみはありません。しかし、もしあなたがあわれみ深かったら、神があなたを裁く時、憐れみ深いだろう。」(NLT)

神が私たちに求めておられることは、他者にあわれみをあらわすことです。他者を裁く人を、聖書はとても厳しく注意します。

「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。」(ローマ2:1新共同訳)

人差し指を他者に指す時に三本の指が自分に向いているということを意識する必要があります。

ヤコブ 1章

「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」(17節)

聖書の神は、良い神であり、良いものをくださる神です。神が与えてくださるものはすべて良いもので、完全なものです。さらに、神は変わることがありません。神は過去存在し、未来に統べ治められる神であるだけでなく、今も変ることのない、今生きておられ、私たちを愛し、導き、守ってくださる、良いものを与えてくださる現在の神です。私たちは神のイメージを聖書的にする必要があります。聖書の神は、よくある神話に出てくるような良いものを奪っていくわがままな存在ではなくて、私たちを愛し、私たちに関心をもち、良いものを与えてくださる神です。この確信に、私たちの心が深く満たされることは大切なことです。今日は主の日。主に賛美と礼拝を共に捧げましょう。