哀歌 4章

「助けを求めたが、むなしかった。私たちは見張り所で、見張った。救いをもたらさない国の来るのを。」(17節)

イスラエルの国は、問題が起こるとエジプトの国を頼る傾向がありました。しかし、

「私たちは、同盟国の助けを待っていましたが、来ませんでした。最もあてにしていた国さえ、少しも動こうとしませんでした。」(LB)

残念ながら、そのような事態が、この地上ではよく起こります。一番助けて欲しいときに、助けてもらえないことがあります。(逆も事実で、助けることができないということもあると思います。)それは、他人だけでなく、自分自身にも言えることだと思います。私たちの肉の力も、「救いをもたらさない国」の一つでしかありません。私たちを救うことができるのは、救いの神、イエス・キリストだけです。神は、

「わたしを呼べ。そうすればわたしはあなたに答える」(エレミヤ33:3)

とおっしゃられます。主に助けを求めましょう。

哀歌 3章

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は力強い。」(23節)

エレミヤは、神の裁きと言う悲しい知らせの中で、神のあわれみを思い浮かべ、希望をこの箇所で語ります。彼は、そもそも、神があわれみ深くなかったら、もっと前に滅んでいたということに気づきます。そして、希望をただ主に置きます。

「主の救いだけに望みを置いて、静かに待つのは良いことです。」(26節LB)

私たちは自分の周りを取り囲む、問題に疲れ果て、落ち込んでしまう時があります。しかし、神の救いだけに望みを置くならば、希望があります。主のあわれみは尽きないからです。

「主は、ご自分を待ち望む者、ご自分を求める者を慈しみます。」(25節LB)

哀歌 2章

「夜の間、夜の見張りが立つころから、立って大声で叫び、あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。主に向かって手を差し上げ、あなたの幼子たちのために祈れ。彼らは、あらゆる街頭で、飢えのために弱り果てている。」(19節)

私たちは今、世界中で起こっている様々な出来事に、心を痛めることが多いのではないでしょうか。多くの人々は、まさに、弱り果てています。今こそ教会は、大声で叫び、心を水のように主の前に注ぎだす時ではないでしょうか。今、祈らなければ、いつ、祈るのでしょうか。私たちは特に子どもたちのため、次世代のために祈る必要があります。物質的な飢えも問題ですが、これほどの情報化社会にあってなお、霊的飢餓状態に陥っている現状があります。神の御言葉を食すことが出来なければ、霊的飢えのために弱り果ててしまいます。ジャンクフードのような言葉ではなく、健全な神のみことばを食することができますように。

哀歌 1章

「ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。国々の中で大いなる者であったのに、やもめのようになった。諸州のうちの女王は、苦役に服した。」(1節)

哀歌の作者はエレミヤだと考えられています。この書は嘆き、悲しみで満ちています。それはエレミヤが、四〇年間神の御言葉や警告を語り続けたにもかかわらず、イスラエルの人々がその行いを変えず、結果として、かつては多くの人々で賑わっていたエルサレムの神殿が破壊され、バビロニアに人々が捕囚されていく様子を目の当たりにしなければならなかった彼の心の叫びが記されているからです。御言葉に真剣に耳を傾ける大切さを、エレミヤのこの嘆きから今一度考えるべきであると思います。イスラエルの人々の問題は、神のことばを軽視したことにありました。私たちは神のみことばを軽視しないように気を付ける必要があります。

エレミヤ 52章

「ユダの王エホヤキンが捕え移されて三十七年目の第十二の月の二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が即位した年のうちに、ユダの王エホヤキンを釈放し、獄屋から出し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。」(31,32節)

何度にもわたる預言者エレミヤの警告に耳を傾けることがなかったユダの国は滅ぼされ、エルサレムは陥落し、人々はバビロンに捕囚されました。まさに、当然の結果が訪れました。しかし、エレミヤ書はここで終わりません。手遅れと思う状況の中で、エホヤキン王にあわれみの手が差しのべられたことを伝えます。つまり、ダビデ王朝が途切れたわけではなく、神のダビデに対する契約が終わったわけではなかったことを伺わせます。ダビデの家系はこの後、イエス・キリストへと続きます。ですから、私たちはどんなにがっかりしても、あきらめてはいけないのです。

エレミヤ 51章

「主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。」(15節)

厳しい預言の合間に、預言者が神の偉大さについて語っていることは、注目に値すると思います。エレミヤは神の偉大さを語った後に、こう付け加えます。

「神に比べたら、人間は愚かな獣で、一かけらの知恵もありません。」(17節LB)

人間の根本的な問題の一つは、神よりも自分の方がすぐれていると思い込んでいるところです。アダムとエバの問題もここにありました。彼らへの誘惑の言葉は、

「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)

でした。しかし、人間は神のようになることはありません。神は神であり、人は人です。私たちは偉大なる神の御前にへりくだる必要があります。
今日は主の日。主の御前にへりくだり、共に礼拝を捧げましょう。

エレミヤ 50章

「彼らを贖う方は強く、その名は万軍の主。主は、確かに彼らの訴えを支持し、この国をいこわせるが、バビロンの住民を震え上がらせる。」(34節)

バビロン帝国に捕囚されていったイスラエルの民を贖う権利をもつお方は強く、その名は万軍の主だと言います。

「彼らを救い出す者は強く、その名は全能の主だ。わたしは彼らの訴えを聞き、彼らが自由の身となり、再びイスラエルの地で平穏に暮らせるように取り計らう。だがバビロンの住民に安息はない。」(LB)

この後、バビロン帝国はペルシャ帝国に滅ぼされ、イスラエルの民はイスラエルの地に帰還します。エレミヤがこの預言をした時、誰がそんなことを想像したでしょうか?ですから私たちは確信をもって今、信じることができます。私たちを救い出す主は強く、その名は、天の軍勢の主です。私たちの訴えを、祈りを聞き、イスラエルの人々を導いたように、私たちを最善へと導いてくださいます。

エレミヤ 49章

「裏切り娘よ。あなたの谷には水が流れているからといって、なぜ、その多くの谷を誇るのか。あなたは自分の財宝に拠り頼んで、言う。『だれが、私のところに来よう。』」(4節)

アモン人は、自分たちは肥えた谷間の地に住んでいるから大丈夫と考えていました。しかし、ヨセフスという歴史家によりますと、エルサレムの崩壊した五年後には、アモン人もネブカデネザルの手によって、滅ぼされてしまったとあります。神はアモン人の問題をこう言っています。

「根性の曲がった娘よ。おまえは自分の財産を心の拠り所とし、手出しする者はだれもいないと考えていた。」(4節LB)

この箇所の預言は、崩壊したエルサレムに住んでいた残りの民が、周辺国に頼って移り住もうと考えていた時に語られたものでした。つまり、自分の財産を心の拠り所として生きる生き方も、もろい生き方であるということを警告しています。主により頼む生き方ができますように。