イザヤ 16章

「一つの王座が恵みによって堅く立てられ、さばきをなし、公正を求め、正義をすみやかに行なう者が、ダビデの天幕で、真実をもって、そこにすわる。」(5節)

この世界の終りに、イエス・キリストは恵みによってこの世を治められるという預言です。完全な支配は、イエス・キリストが再び来られる時にもたらされます。しかし、イエス・キリストが私たちの罪のため、十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられたことを通して、すでに、イエス・キリストの統治はこの世界に始まっています。死からよみがえられたイエス・キリストは今、天のみ座にあげられ、父なる神の右に座しておられます。「イエスは主」という時、私たちはこのイエス・キリストの統治を認め、告白しているのです。「ダビデの天幕」は旧約で預言されたダビデ契約の成就ということです。

今日は主の日。王の王、主なる主、我らの救い主、イエス・キリストに賛美と礼拝を捧げましょう!

イザヤ 15章

「わたしの心はモアブのために叫ぶ。」(5節)

モアブという国は聖書の中で幾度となく登場します。モアブは、アブラハムの甥のロトの子孫(創世記19:37)です。しかし、イスラエルの民が約束の地に向かう時には、バラムを雇い、呪わせようとしました。(民数記22章)ルツ記のルツは「モアブの女」(ルツ1:4)でした。イザヤ書15章は最初から最後までモアブに対する厳しい宣告が書かれていますので、読んでいると絶望的な気持ちになるかもしれません。しかし、そんなモアブ人ルツの子孫から救い主、イエス・キリストが誕生したことを忘れるべきではありません。マタイの福音書の1章に、アブラハムからイエス・キリストまでの系図が出てきますが、わざわざ『ルツによって』と、記されています。神はすべての人の神であり、モアブも心に留められておられます。暗闇から光へと導きだしてくださる主は、今日も私たちと共におられます。

イザヤ 14章

「あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(13,14節)

この箇所は一般的にサタン(ルシファー、悪魔)について言及している箇所だと考えられています。エバを「あなたがたが神のようになり」(創世記3:5)と誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するようになったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。神のようになろうとする欲求は昔も今も変わりません。人間は今も神に対抗できるかのようにバベルの塔を築き上げようとし、その結果、混乱(バベルの意)がますます世界に広がっています。神は神であり、人は神になることはできません。神は絶対者であり、対立できる存在はいません。悪魔の嘘にだまされないように、神を神として認めていくことができますように。

イザヤ 13章

「アモツの子イザヤの見たバビロンに対する宣告。」(1節)

13章は、この頃台頭していたバビロン帝国に対する滅亡への預言が記されています。当時のオリエントにおいての最強と言われた国々に対し、これから起こる破壊と破滅を預言することを、イザヤはどのように受け止めていたのでしょうか。まさに、その「とき」には非常に不可能にみえることを預言として人々に伝えることは、イザヤにとって大きなチャレンジであったと考えることができます。それは、創世記の中でノアが洪水を前にして箱舟を神の命令に従って造ったことと似ているかもしれません。

「見よ。主の日が来る」(9節)

どんなに不可能と思えたとしても、「神がする」と言ったことは必ず実行されることに心を留めたいと思います。聖書の御言葉には「神がする」に満ちています。「見よ。主の日が来る。」真剣に耳を傾けていきたいと思います。

イザヤ 12章

「あなたがたは喜びながら救いの泉から水を汲む。」(3節)

この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていたフォーク・ダンスの歌詞だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に、祭司がギホンの泉から水を汲み、この節を唱えて神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ7:38,39)

イエス様こそ、わたしたちの救いといのちの源泉です。

イザヤ 11章

「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもってよるべのない者をさばき、公正を持って国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」(3,4節)

この節での『この方』とはその前後の文脈から見てイエス・キリスト(メシヤ)を指していると考えられます。そして、今日示されている箇所は、まさにイエス様がその三年半の公生涯の中で人々に示されたものでした。イエス様は父なる神との時をなによりも喜ばれ、外見や人のうわさで人を裁くことはありませんでした。どんな人にも公正な態度を持ち、一見信仰深そうに見えても、愛もなく自分の正しさで人々を裁いていく人々に対しては厳しい態度で臨まれました。私たちはこのイエス様の姿勢を模範として生きていくことができますように。

イザヤ 10章

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のように、住民をおとしめた。』」(13節)

イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されています。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書は、ちょうど北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。イザヤが活動していた南ユダ王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することができます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしまうのです。首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認されています。どんな強国も栄枯盛衰していくように人間は全能ではありません。まことの神のみが、全能者です。

イザヤ 9章

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」(6節)

イザヤ書の中にはイエス・キリストの誕生に関して数多くの預言が記されています。まず、このお方は私たちのために生まれました。神のひとり子は私たちのために

「その偉大な力と栄光を捨てて奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。そればかりか、さらに自分を低くし、犯罪人と同じようになって十字架上で死なれたのです。」(ピリピ2:7,8LB)

イエス・キリストは私たちのために苦しまれ、あの十字架で死なれました。

「しかし、それゆえに、神はキリストを高く天に引き上げ、最高の名をお与えになりました。」(同9節)

「主権はその肩にあり」という預言にあるとおり、イエス・キリストは死の力をうちやぶり復活されました。今日は主の日。このお方に礼拝を捧げましょう!

イザヤ 8章

「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(19節)

霊媒や口寄せといった類のものは、世界中にありますが日本において特に人々の関心が高いように感じます。神がこれらを忌み嫌う理由は、生ける神ではなく、死人に伺いをたてようとする姿勢です。

『民は、自分の神に尋ねなければならない』

と記されていますが、私たちは問題の渦中で、誰に尋ねているでしょうか?祈りに導かれているでしょうか?聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

イザヤ 7章

「ところが、『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺した。」(2節)

この当時、すでにイスラエルは北と南に分裂していました(北イスラエルと南ユダ)。そして南ユダ王国に対して、アラム(シリア)と北イスラエルが攻めのぼるのですが、南ユダの首都であったエルサレムは陥落しなかったということがこの箇所の背後にある内容です。つまり、南ユダがこの戦いに勝利をしてたのです。にもかかわらず南ユダ王国(ダビデの家)の王も民もアラムと北イスラエルが同盟を結んだといううわさを聞いただけで激しく動揺しました。こういうことは私たちの人生にもよくおこります。敵を過大評価しすぎてしまうと恐れや不安でいっぱいになってしまいます。問題を大きくしすぎないように、神の偉大さに目を向けることができますように。