詩篇 71篇

「神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。」(16節)

「神なる主」と訳された言葉は「主なるヤハウェ」。神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、

「主なるヤハウェの力の中に入っていき、あなたの義を覚える。あなたのだけ。」

となります。詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。また、神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、あなたが危ないところを助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、あなたの恵み深さと、日々途切れることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(4節)

「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠でもあります。使徒パウロもこう言っています。

「ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12口語訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを喜ぶ者には、『なんとすばらしい神でしょう!』と叫ばせてください。」(LB)

神に対する飢え渇きがあるならば、「なんと素晴らしい神でしょう!」と叫ぶ日は必ず来ます。

詩篇 69篇

「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(13節)

この詩を書いたダビデは逆境の中にいました。否定的になろうと思えばいくらでも否定的になれる状況にありました。しかし、彼は主に祈り、主に信頼することを選びました。自分のタイムテーブルを捨て、「みこころの時に」と、神の主権に自分の身を委ねました。それはあきらめの境地にいたったというわけではありません。なぜなら、それでも彼は神の豊かな恵みに期待しているからです。

「愛と恵みを十分に用意して、待っていてくださいます。」(LB)

私たちもダビデと同じような姿勢を持つことが大切だと思います。否定的になることを拒絶し、祈り、委ね、神の恵みに期待する。必ず、神は私たちの祈りを聞き、みこころの時に、万事を益としてくださる。このダビデのような姿勢を選択していくことができますように。

詩篇 68篇

「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。」(34節)

「神の力を認めよ」という言葉をLBは

「力の源は神です。」

と訳しています。

「神の力について、すべての人に語れ」(NLT)

という訳もあれば、

「神の力を宣言せよ」(NIV)

という訳もあります。パウロはこのように言いました。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

パウロは、イエス・キリストを力の源と認めることができれば、どんなことでもできると、神の力を宣言したのです。神は信じる者を滅びから救う力があります。病気をいやす力があります。祝福を与える力があります。聖霊で満たす力があります。

「宮でひざまずく時、口では言い表せないほどの厳粛さに打たれます。イスラエルの神は、ご自分の民を強くし、力を与えてくださいます。さあ、神をほめたたえましょう」(35節LB)

詩篇 67篇

「国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。」(4節)

LBではこう訳しています。「国々は、あなたが彼らの王となり、公平にさばいてくださると知れば、喜び、歌いだすでしょう。」イスラエルの人々の希望、それは、神ご自身が王となって治めてくださることです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、神ご自身が王となられたことを伝えます。天と地は、イエス・キリストの中で交わり、神の支配は、キリストを信じる者たちの間にすでにもたらされました。完全な神の支配は、この世の終わりにもたらされます。しかし今、神の民が共に集り、喜び歌う只中に、神の支配は始まっています。神の国に生きているならば、「喜び、歌いだすでしょう。」
今日は主の日。心からの賛美を王なる神に捧げましょう!

詩篇 66篇

「私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」(12節)

詩人にとって、人生は困難なものでした。しかし、今、神は詩人を

「よく潤された地」(MSG)

に導き出されました。荒野を通り抜け、渇きをいやす水を飲む時、生き返る心地がします。礼拝とは、キリスト者にとっては、そのようないのちを与える水のようなものでもあります。

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

生ける神に賛美と礼拝を共に捧げるその場所こそ、聖霊が満ち溢れる場所であり、生ける水の川が流れ出る場所です。神は私たちを、賛美と礼拝の場に連れ出そうとされています。

詩篇 65篇

「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」(4節)

使徒パウロは言いました。

「キリストのうちにある無限の富が外国人にも与えられるという計画を伝える者として、こんな私が選ばれたのです。」(エペソ3:8LB)

私たちはみな、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに神に近寄せられました。私たちは神の家の良いもので満ち足りるように召されています。ですから神が私たちに与えようとしている無限の富、様々な富を受け取る必要があります。神の無限の富は、祈りを通して与えられます。祈り求める中で、神の無限の富の良いもので、満ち足りることを体験します。

「私たちはこのキリストと共にあり、キリストを信じる信仰によって、確信をもって大胆に神の前に出ることができます。」(エペソ3:12LB)

詩篇 64篇

「彼らは、その舌を剣のように、とぎすまし、苦い言葉の矢をはなっています。」(3節)

私たちを傷つけるものは目に見える凶器だけではありません。苦い言葉、「情け容赦ないことば」(LB)は、わたしたちを傷つけ、落ち込ませ、絶望の淵へと追いやります。思いやりのない言葉は、私たちを苦しめ、立ち上がることを妨げます。しかし、人を生かすのもまた言葉です。生きたことば、命と愛に満ちた言葉は私たちを絶えず前向きな気持ちにし、励ましてくれます。ですから聖書は言います。

「悪意のこもったことばを口にしてはいけません。相手の益となり、助けとなること、また、祝福を与えることだけを話しなさい。」(エペソ4:29LB)

言葉を発する時、自分の感情や思いをぶつけるのではなく、その言葉が本当に相手の益となるかということを一呼吸置いて考えることも大切です。信仰的、肯定的、前向きな言葉を用いることができますように。

詩篇 63篇

「私は、あなたの力と栄光を見るために、こうして聖所で、あなたを仰ぎ見ています。」(2節)

教会に集い、天を見上げ、イエス様に求めます。

「私は、あなたの力と栄光を見るために、今日、教会に来ました。あなたの臨在に飢え渇いています。」

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

神はご自身の力と栄光を現わす場所を探しておられます。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(Ⅱ歴代誌16:9)

私たちが賛美と礼拝を通して、神と心を一つにしていく時に、神は栄光と御力を現わしてくださいます。それは1節にありますように、

「私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。」

というほどの神の臨在に対する飢え渇きから始まります。

詩篇 62篇

「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(1節)

「私の救いは神から来る。」という箇所を、LBでは、

「救うことができるのは神だけですから。」

と訳しています。私たちは黙って神を待ち望むためには、「救いは神から来る」ということ、「救うことができるのは神だけ」ということを受け止める必要があります。パウロは自分の無力さを痛いほど思い知らされた時に、

「救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

ということを悟りました。パウロは黙ってというよりも、黙らされて、神を待ち望み、「救うことができるのは神様だけ」ということを身をもって体験させられました。新共同訳では、

「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」

と訳しています。リック・ウォーレン師がこんなことを言っています。

「神は自ら助くる者を助けない。神は神を頼る者を助ける。」