2歴代誌 7章

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(14節)

聖書は私たちの「地」はいやされる必要があると言います。この地上には、多くの悲しみ、傷があり、いやされる必要があります。その方法は、

「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり」

祈ることです。誰かのせい、何かのせいにするのではなく、キリストの御名によって祈ることが出来るクリスチャンたちが、まず、祈るということです。自分の力で何とかなると思わず、へりくだって、神を求めること。神のみこころを求めることです。そして、「悪い道」から立ち返ること。「悪い道」とは「人間の欲望」、自己中心の道です。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

2歴代誌 6章

「それにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。」(18節)

聖書の神殿は、神を閉じ込められる場所という意味ではありません。神は時間や場所に限定できるお方ではありません。ソロモンもそのことを自覚していました。ですからソロモンにとって神殿とは天と地が重なる「祈りの家」でした。教会も「祈りの家」です。教会の中に神を閉じ込めることはできませんが、神はご自身の臨在を教会の賛美と祈りの中に現してくださいます。ですから使徒パウロは言います。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

2歴代誌 5章

「ラッパを吹き鳴らす者、歌うたいたちが、まるでひとりででもあるかのように一致して歌声を響かせ、主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ、「主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」と主に向かって賛美した。そのとき、その宮、すなわち主の宮は雲で満ちた。」(13節)

「雲」は神の臨在を意味します。賛美に満ち溢れた場所が、「雲で満ちた」、すなわち、神の臨在に満ち溢れたのです。神は賛美を住まいとされます。ですから、生ける神の臨在を体験できる場所は賛美の中です。「ラッパとシンバルとさまざまの楽器をかなでて声をあげ」という箇所を見ますと、相当、騒々しい賛美だったことが伺えます。主の前に静まる時も大切ですが、元気よく騒々しく賛美を捧げる時も大切です。悪魔は私たちが神に賛美を捧げることを妨げようとします。神への賛美が満ち溢れている場所に、悪魔はいることができないからです。

2歴代誌 4章

「この金は混じりけのない純金であった」(21節)

神殿で用いられる用具は「混じりけのない純金」を用いて作ったと聖書は言います。中世の修道士たちは、まさにこの「混じりけのない純粋性」を求めて、この世と隔離した修道院で修練しました。しかし、この方法は行き詰まります。修道士だったマルチン・ルターは人間の努力で「混じりけのない純粋性」を手に入れることができないことを悟ります。ルターは聖書を深く学ぶ中で、ただ神の恵みによって、キリストだけが自分をきよめることができることを知ります。

「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」(へブル9:13,14)

今日は主の日。主に仕えることができますように。

2歴代誌 3章

「それから彼は、青、紫、紅、および白亜麻布の垂れ幕を作り、その上にケルビムの模様を縫いつけた。」(14節)

「ケルビム」は天使のことで、今日の箇所の垂れ幕は至聖所の入り口にかけられていました。至聖所には神の栄光(シャカイナ・グローリー)がありました。この垂れ幕は人の手では裂くことができないほど分厚い幕だったと言われています。しかし、イエス・キリストが十字架にかかられ死んだ時、聖書はこう記しています。

「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」(マタイ27:51)

つまり、神様が「さあ、中に入っておいで!あなたたちはみんな、至聖所に招かれているんだよ。」と語られたのです。イエス・キリストの十字架の死によって、神様が上から下まで、人にはできない分厚い垂れ幕を破られました。

「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

2歴代誌 2章

「さて、ソロモンは主の名のための宮と自分の王国のための宮殿とを建てようと考えた。」(1節)

旧約聖書における神殿は、新約聖書の光をあてると三種類の適用ができます。

一つは、イエス・キリストのからだという理解です。

「イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。」(ヨハネ2:21)

二つ目は、イエス・キリストを信じる者のそれぞれのからだという理解です。

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」(Ⅰコリント6:19)

三つ目は、教会、キリストを信じる者たちの集まりという理解です。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16)

いずれにせよ、天と地が重なり合う場所(空間)です。

2歴代誌 1章

「その夜、神がソロモンに現われて、彼に仰せられた。『あなたに何を与えようか。願え。』」(7節)

聖書の神は私たちに「願え」とおっしゃられるお方です。しかし、アラジンのジーニーとは違います。私たちのしもべとなって願いをかなえてくれる都合のいい存在ではありません。神は神であり、私たちの願いをきかなければいけないという意味ではありません。しかし、神は「願え」とおっしゃってくださるお方、私たちの祈りに答えてくださるお方です。実際神様は、ソロモンの祈り以上に答えられました。

「あなたが富をも、財宝をも(中略)求めず、むしろ、私があなたを立てて私の民の王としたその民をさばくことができるようにと、自分のために知恵と知識を求めたので、その知恵と知識とはあなたのものとなった。そのうえ、私はあなたの前の、また後の王たちにもないほどの富と財宝と誉れとをあなたに与えよう。」(11,12節)

1歴代誌 29章

「そのうえ、私は、私の神の宮を喜ぶあまり、聖なる宮のために私が用意したすべてのものに加えて、私の宝としていた金銀を、私の神の宮のためにささげた。」(3節)
ダビデは
「全力を尽くして、私の神の宮のために用意をした」(2節)
だけでなく、喜びのあまりそれに加えて捧げたとあります。神に捧げることは喜びです。私たちは受けるためにではなく、捧げるために生きています。29節にこう書いてあります。
「こうして、民は自分たちのみずから進んでささげた物について喜んだ。彼らは全き心を持ち、みずから進んで主にささげたからである。ダビデ王もまた、大いに喜んだ。」
捧げることが喜びだと言う世界を体験するためには、みずから進んで、自発的に捧げる姿勢を持つことが大事だと思います。ですから使徒パウロもこう言っています。
「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)

1歴代誌 28章

「それから、ダビデはその子ソロモンに言った。「強く、雄々しく、事を成し遂げなさい。恐れてはならない。おののいてはならない。神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから――。主は、あなたを見放さず、あなたを見捨てず、主の宮の奉仕のすべての仕事を完成させてくださる。」(20節)

「恐れてはならない」とダビデが言ったのは、ソロモンが恐れていたからだと思われます。どんな人でも指導的な立場を受け継ぐことには恐れが伴うものだと思います。ダビデは根拠なく言ったわけではありません。彼はその根拠を、こう言っています。

「神である主、私の神が、あなたとともにおられるのだから」。

全知全能の神が共にいるから、恐れる必要はないと言ったのです。神様は私たちを見放さず、見捨てず、完成させてくださるお方です。だから使徒パウロは言いました。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

1歴代誌 27章

「ダビデは二十歳以下の人々は数に入れなかった。主がイスラエルを天の星のようにふやそうと言われたからである。」(23節)

当時の人口調査の理由は、兵士の数を数えるためです。ですから神様が人口調査を禁じた理由は、イスラエルの人々がマン・パワーに依存して、神様に頼らなくなることを危惧したからです。残念ながら、人は計算できる範囲内に生きていると、祈りがなおざりになっていく傾向があります。計算できますから、祈っても祈らなくても同じに見えてしまうのです。しかし、自分の頭で計算できない時、私たちは必死で祈ります。祈ることしかできないからです。いつも自分の計算できる範囲内に自分を置くならば、安定はするかもしれませんが、祈りがなおざりになって、霊的な部分が弱くなっていきます。計算することがすべて悪いわけではありません。しかし、計算することができない信仰の冒険の世界に挑戦する姿勢も大事です。