民数記 6章

※ 今日は東日本大震災から4年。被災地の方々の上に神様の助けがありますように。

「『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」(24‐27節)

新改訳では「祈るなら」と書いてありますが、原文は「祈り」と言う言葉は使われていません。これは三位一体の神の御名によって宣言された私たちに対する祝福の約束です。
「父なる神は、今日、あなたを祝福してくださいます。私達の物質的な必要は満たされます。
子なる神、イエス様は、今日、あなたに現してくださいます。すべての答えは、イエス・キリストにあります。
聖霊なる神様は、今日、あなたのもっとも深い霊的な必要を満たしてくださいます。私達の心は平安を体験します。」
祝祷には、神の祝福が約束されています。

民数記 5章

「・・・わたしがその中に住む宿営を汚さないようにしなければならない。」(3節)

荒野を旅するイスラエルの人々にとって一番大切なことは、神が「その中に住む」ということでした。イエス様の時代のパリサイ人も、この思想のゆえに、彼らの基準に達さない人たちを汚れた人として、切り捨てていました。しかし、イエス様ははっきりと言いました。

「しかし、忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。」(マタイ23:13)

彼らは汚さないために祭司たちが守るべき律法を守ってきたという自負がありました。しかし、それは神が願っていたことではありませんでした。神がその中に住む宿営を汚さないために私たちができることは、イエス・キリストの十字架の御業を認め、キリエ・エレイソン、「主よ、憐れんでください」と祈ることでした。

民数記 4章

「それは会見の天幕で務めにつき、仕事をすることのできる三十歳以上五十歳までのすべての者である。」(3節)

世代交代はいつの時代でも難しい課題の一つだと思います。イスラエルの場合は、50歳で引退して新しい世代を支援する側に回ることが命じられています。8章には、こう書いてあります。

「レビ部族は25歳になったら奉仕を始め、50歳で引退する。引退後も天幕での細々した仕事はできるが、普通の責任ある務めはできない。」(8:23-:26LB)

年齢制限をどう設けるかは、様々な適用ができると思いますが、次世代を支援するという姿勢が大事ということを教えているのだと思われます。ある牧師はこう言っています。

「心から人を助けようとすることは、自分自身をも救うことになる。これは、この世の生におけるもっとも美しい報酬の一つである。」

民数記 3章

「これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。しかしナダブとアビフは、シナイの荒野で主の前に異なった火をささげたとき、主の前で死んだ。」(3,4節)

この章は、幕屋で奉仕をするレビ族に関して記述されています。アロンの子、ナダブとアビフが異なった火を捧げたことは、レビ記10章に出てきます。神が与えてくださった火を捧げなければならないのに、自分たちで異なった火を捧げたことによって死んでしまいました。新約聖書では、キリストを信じる者は皆、ナダブとアビフと同じように祭司の役割があると言います。イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、幕屋を再建することはしません。しかし、「異なった火」の問題は、神が私たちの心、動機を見ておられるということです。聖なる畏れをもつことは大事なことです。今日は主の日。主に心からの礼拝を捧げましょう。

民数記 2章

「イスラエル人は、おのおのその旗のもと、その父祖の家の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の回りに、距離をおいて宿営しなければならない。」(2節)

この章には、イスラエルの部族がどのように宿営するか、その配置が命じられています。注目することは、神の臨在を現す会見の天幕を中心に置くように命じたことです。そのようにして人々は日々、神が彼らのただ中におられることを意識しました。使徒パウロは教会に関して、こんなことを言っています。

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたの中に宿っておられることを知らないのですか。」(Ⅰコリント3:16直訳)

教会の中心には神の臨在を現す聖霊が宿っておられます。私たちがイエス・キリストの御名によって共に集まり、賛美と礼拝を捧げる中で、私たちは神が私たちのただ中におられることを意識することができます。

民数記 1章

「それで、父祖の家ごとに登録された二十歳以上のイスラエル人で、イスラエルで軍務につくことのできるすべての者、すなわち、登録された者の総数は、六十万三千五百五十人であった。」(45,46節)

神はモーセにイスラエル男子の数を数えるように命じました。(それで、この書は「民数記」と呼ばれます。)六十万三千五百五十人いました。そのうちの二人、カレブとヨシュアだけが約束の地に入ることができました。残りの六十万三千五百四十八人は不信仰のゆえに荒野で死んでしまいました。ヘブル書三章で、彼らが入れなかった理由は「従おうとしなかった」からだと言います。LBでは「文句を言い続けた」(8節)、「神様が忍耐強いので図にのり、何度も何度も反抗しました」と訳しています。へブル書はこのように警告しています。

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7,8)

ヨハネ 21章

「ペテロは彼を見て、イエスに言った。『主よ。この人はどうですか。』イエスはペテロに言われた。『わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。』」(21、22節)

私たちはすぐ周りと比較してしまう傾向があります。ペテロもそうでした。彼はイエスから、彼の人生に迫害が待ち受けていることを告げられた時、「ヨハネはどうなのですか?」と尋ねました。イエスの答えは、「ヨハネにはヨハネの使命があるのだから、あなたはヨハネと自分を比べるのではなく、わたしにただ従ってきなさい」ということでした。これは信仰生活においてとても大事な姿勢です。「あの人がこうするから、私もこうしよう」、「あの人がこうしないから、私もしない」というのは、イエスが望まれている信仰姿勢ではありません。神との一対一の関係を築くことを求められています。

ヨハネ 20章

「そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。」(22節)

キリストの復活は「新しい神の週」が始まったことを証しています。

「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(23節)

という意味は、今までとはまったく異なった生き方のことです。今までの「やられたらやり返す」というような古い生き方ではなく、「愛と和解、癒しと希望」をもたらす新しい生き方のことです。イエスはこの新しい世界に生きるためには、聖霊が必要であることをよく知っていました。それで、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました。イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた神の国に生きていくために、聖霊の力が必要です。それで初代教会から伝わる祈りは「聖霊様、来てください」です。今、聖霊に満たされるように祈りましょう。

ヨハネ 19章

「イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。」(30節)

「完了した。」という単語は、「完済した」という意味です。請求書に書く「支払済み」という単語です。請求書は、すでに処理されました。支払いは終わりました。イエスの十字架の御業は完璧でした。「完了した」というのはまた、「完成を告げられた」という意味もあります。創世記の二章で、神が天地万物を創造された後、このように記されています。

「それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。」(創世記2:2)

イエス・キリストの十字架の死は、神がなさっていた新しい創造のわざの完成でもありました。ですから、使徒パウロもこのように言います。

「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者(新しい創造)です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17)

ヨハネ 18章

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」」(36節)

ピラトは当時のローマ帝国を代表しています。イエスは「神の国」を代表しています。イエスはピラトにこう言いました。

「わたしの国はこの世から出たものではありません。」(直訳)

イエスのポイントは、「神の国」というのは、ローマ帝国に代表される、「この世の力」を土台としたものではないということです。時として「この世の力」は、揺るぐことのないもののように見えてしまう時があります。しかし、ローマ帝国も崩壊したように、「この世の力」は絶対ではありません。しかし、キリストが十字架にかかられることによってもたらされた「神の国」は今も全世界へと広がり続けています。