民数記 15章

「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。」(38-40節)

新約聖書に十二年間長血をわずらっている女性の話が出てきます。彼女はイエス様の「着物のふさにさわった」(マタイ9:20)と聖書は言いますが、彼女がさわったふさとは今日の箇所で神を思い起こすためにつけるように命じられたふさでした。彼女は単に衣のふさに触ったというわけではなく、自分勝手にやりたいことをやることをやめ、生ける神を思い起こし従う決心が込められていました。

民数記 16章

「モーセは言った。「私を遣わして、これらのしわざをさせたのは主であって、私自身の考えからではないことが、次のことによってあなたがたにわかるであろう。」(28節)

コラたちはモーセとアロンとに逆らいました。ねたみがその理由だったと思われます。実際、彼らはモーセたちをこう責めました。

「でしゃばるのもいいかげんにしてほしい。お二人の説教はもうたくさんだ。たいした人物でもないくせに。おれたちだって、神様に選ばれたものじゃないか。神様はおれたちみんなの神様だ。」(3節LB)

プロテスタント教会の特徴の一つは万人祭司主義です。これは、誰でも神にイエス様のみ名によって直接祈れるということです。しかし、時として万人牧師と誤解してしまうことがあります。教会の頭であるキリストは各々の教会に教職者という霊的な指導者を与えられていることを尊重することは大切なことです。

民数記 14章

「この民はいつまでわたしを侮るのか。わたしがこの民の間で行なったすべてのしるしにもかかわらず、いつまでわたしを信じないのか。」(11節)

約束の地を前にして、神に信頼しようとせずに「エジプトに帰る」と叫ぶ民に神は言いました。

「この者たちはいつまでわたしをばかにするのか。あれだけ奇蹟を見ても、まだわたしを信じないのか。」(11節LB)

民主主義の危険な側面は、多数の意見が必ずしも正しいとは限らないということです。偵察に行った一二人のうち、カレブとヨシュアだけが信仰の目をもって「できる」と主張しました。しかし、この世的な目をもって「無理だ」と主張した多数派に負け、イスラエルの人々は神に打たれ滅ぼされる危機に瀕します。結果、多数派の一〇人は神に罰せられました。

「人々を不安にし、神様に背くようにそそのかした十人のスパイが、まず神様に罰せられて死にました。」(36,37節LB)

民数記 13章

「そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。『私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。』しかし、彼といっしょに上って行った者たちは言った。『私たちはあの民のところに攻め上れない。あの民は私たちより強いから。』彼らは探って来た地について、イスラエル人に悪く言いふらして言った。『私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。」(30‐32節)

偵察に行った12人のうち、10人は約束の地を悪く言いました。彼らは自分たちよりも強い人たちがいるから無理だと言いました。神の約束を忘れ、ただ、自分たちの状況しか見えていませんでした。しかし、カレブは違いました。彼は神が約束したから、神が共にいるから「大丈夫、やれば必ずできる。」(30節LB)と言いました。カレブは神の栄光を見ました。私たちは信仰が求められています。

民数記 12章

「彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(2,3節)

神はすべての人に語られています。しかし、神は牧師、伝道師、宣教師と言った教職者を特に用いて語られています。教職者はモーセのように、謙遜であるべきで、自分を宣伝するべきではありません。だから聖書が言います。

「与えられた仕事を忠実に果たしている牧師は、それに見合う報酬を受け、心から尊敬されるべきです。説教と教育の両方に熱心に励んでいる牧師の場合は、特にそうでなければなりません。」(Ⅰテモテ5:17LB)

私たちは、教会のサイズ(たとえどんなに小さな教会でも)や教団教派の区別なく(自分の所属教会でなくても)、神に忠実に仕えている教職者たちに対して尊敬心をもつことは大切なことです。

民数記 11章

「主はモーセに答えられた。『主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。』」(23節)

イスラエルの民は荒野で、マナと言う特別な食べ物で神に養ってもらっていたのに、肉が食べたいと不平を言い出しました。すると神は、一ヶ月間、食べ飽きるほどの肉を与えることを約束しました。しかし、それはモーセにとっては驚くような内容でした。なぜなら、彼らがもっていた家畜ではまかなうことができないほどの人数がイスラエルにいたからです。そんなモーセに神は言いました。

「黙れっ!いつからわたしはそんなに弱くなったのか。わたしの言うことが本当かどうか、今にわかる。」(23節LB)

聖書の神は全能の神です。神に不可能なことは一つもありません。人に出来ないことも、神に出来ないことはありません。

民数記 10章

「こうして、彼らは主の山を出て、三日の道のりを進んだ。主の契約の箱は三日の道のりの間、彼らの先頭に立って進み、彼らの休息の場所を捜した。」(33節)

神の臨在を象徴していた契約の箱が、イスラエルの先頭を進んで、彼らの休息の場所を探したとあります。つまり、彼らが宿営するのに最適な場所に導くために、神は彼らの前を行かれたと言います。イエス様も、私たちのために場所を備えに行くと言われました。

「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14:1-:3)

今日は主の日。イエス様から目を離さずに、ついていくことができますように。

民数記 9章

「するとモーセは彼らに言った。『待っていなさい。私は主があなたがたについてどのように命じられるかを聞こう。』」(8節)

モーセは民の疑問に対して、自分の意見を述べることをせず、神のみこころを求めました。私たちも同じように自分の意見や助言をする前に、神に祈ることが大切だと思います。特に現代は共依存の問題があります。それだけでなく、自分の助言のゆえに問題が起きたら、その助言のゆえに自分も問題に巻き込まれてしまいます。待つことが難しい時代ですが、主を待ち望む姿勢は大事なことです。神が語られることを聞こうと祈り求めるならば、自分が助言をしなくても、神が本人に直接語られることもあります。神は聖書を通して語られます。聖書は神の言葉ですから、聖書に矛盾することも神が語ることはありえません。

民数記 8章

「アロンに告げて言え。あなたがともしび皿を上げるときは、七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい。」(2節)

神がモーセにともしび皿の位置まで指定されたということは興味深いことです。

「燭台の七つのともしび皿に火をつける時は、前を明るくするように、アロンに言いなさい。」(LB)。

燭台は「メノーラー」と呼ばれ、現イスラエルの国章にもなっています。燭台はまた、「教会」を象徴します。(黙示録1:20参照)黙示録で、ヨハネがイエス様の声を聞いた時、このように記されています。

「そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。」(1:12)

教会の中心にイエス様がおられ、語られます。今日の箇所で、前を明るくするようにと命じられているのは、教会は過去ばかり照らすのではなく、常に前を照らし続けること、刷新し続けることが求められているということではないでしょうか。

民数記 7章

「そこでモーセは車と雄牛とを受け取り、それをレビ人に与えた。車二両と雄牛四頭をゲルション族にその奉仕に応じて与え、車四両と雄牛八頭をメラリ族に、祭司アロンの子イタマルの監督のもとにある彼らの奉仕に応じて与えた。しかしケハテ族には何も与えなかった。彼らの聖なるものにかかわる奉仕は、肩に負わなければならないからである。」(7‐9節)

幕屋に携わるレビ族は三つのグループに分かれていました。神は「それぞれの奉仕に応じて渡せ」と命じ、ゲルション族は車二両と雄牛四頭が与えられました。メラリ族には車四両と雄牛八頭、ケハテ族にはなんと、何も与えられなかったとあります。一見、不公平な分配に見えます。しかしそれぞれに割り当てられた仕事を見る時に、「その奉仕に応じて与えた」ということが分かります。不公平と思う前に、

「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。」(ガラテヤ6:5)

ということ心に留めたいと思います。