エゼキエル 44章

※ 2014年3月11日は東日本大震災より3年目の日。被災地の方々、被災地の教会を覚えてお祈りください。

「しかし、イスラエル人が迷ってわたしから離れたときもわたしの聖所の任務を果たした、ツァドクの子孫のレビ人の祭司たちは、わたしに近づいてわたしに仕え、わたしに脂肪と血とをささげてわたしに仕えることができる。―神である主の御告げ。―彼らはわたしの聖所にはいり、わたしの机に近づいてわたしに仕え、わたしへの任務を果たすことができる。」(15、16節)

キリスト教会とは、キリストをあがめ、神のみ言葉である聖書が語られる所です。20世紀、近代主義の影響で自由主義神学と呼ばれる聖書の権威を否定する運動が起こりました。その中で、残念ながら聖書を神のことばとして語るという任務を放棄してしまう人々が出ました。しかし、どんなに批判されても誠実に聖書を神のことばとして語り続けた人々もいました。その一人が、ビリー・グラハム。神は誠実に任務を果たし続けた人を用いられました。今も神は忠実な人を探しておられます。

エゼキエル 43章

「今、彼らにその淫行や王たちの死体をわたしから遠く取り除かせなければならない。わたしは永遠に彼らの中に住もう。」(9節)

 神殿が意味することは「彼らの中に住む」という神の臨在であり、それが、イスラエルの人々が失ったものでした。彼らが神の臨在を失った原因は、神以外のものを神としたことでした。神がどのようなお方か、私たちは聖書を通してのみ明確に知ることができます。ですから、もし、聖書のみことばよりも権威をもつものがあれば、キリストの教会であっても、神の臨在を失う可能性があると言っても言い過ぎではないと思います。聖書のみことばよりも権威をもつものは、取り除かなければなりません。私たちは、何よりも神の臨在を優先させなければなりません。

「主よ、聖書のみことばを感謝します。

聖書こそ、私たちの信仰と生活の唯一の規範です。主が、私たちの中に、永遠に住まわれますように。」

エゼキエル 42章

「祭司たちは聖所にはいったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。」(14節)

ピリピ書にこういう箇所があります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(2:6,7)

私たちの大祭司であるイエス・キリストは、私たちのところに来るために、「神のあり方」を脱がれて、人となってこの地に来てくださいました。完全な神が、完全な人となられたのです。私たち人間に近づくためには、私たち人間の身代わりになるためには、「神のあり方を捨てる」以外にはなかったのです。

教会暦では先週の水曜日からレントに入りました。イースターまで、キリストの苦難を覚えます。無限の神の御子が、私たちのために有限な人間になられた意味を考えたいと思います。

エゼキエル 41章

「彼はまた、本堂に面して長さ二十キュビト、幅二十キュビトを測って、私に「これが至聖所だ。」と言った。」(4節)

エゼキエルは、幻によって再建すべきエルサレムの神殿の設計図をいただきました。それは、漠然としたものではなく、非常に詳しく、壮大なものでした。ところがエゼキエルはこの時、捕囚されて、バビロンにいたのです。彼らの状況はそれどころではありません。しかし、神殿は、私たちの可能性の上に建てるものではなく、神の設計図に従って建てるものです。私たちが今建て上げていくべき神の神殿は、教会です。Ⅰコリント3:16には、
「あなたがたは神の神殿であり・・・。」
とあります。教会は、私たちの可能性の上に建てるものではありません。私たちは、自分たちの状態がどのようであっても、神の設計図に従って、建て上げていく必要があります。

エゼキエル 40章

「それから、彼が東向きの門に行き、その階段を上って、門の敷居を測ると、その幅は一さおで、もう一つの門の敷居も幅は一さおであった。」(6節)

 ユダヤ人たちは、エルサレムに「上って」行くと言います。彼らが神殿につくと、「階段を上って」門の敷居に行きました。まさに彼らは階段を上っていくことによって、神を礼拝することが、引き上げられる体験であることを意識していたのです。神は私たちを引き上げられるお方です。この世界には私たちを傷つけ、貶めるものが多々あります。しかし、神は私たちを礼拝に招き、私たちに語りかけます。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)

神に礼拝を捧げる中で、賛美と祈りを捧げる中で、私たちの霊も信仰も引き上げられていきます。

神は今、私たちを引き上げるために、私たちを招いています。

エゼキエル 39章

「わたしは二度とわたしの顔を彼らから隠さず、わたしの霊をイスラエルの家の上に注ぐ。」(29節)
 
終わりの日、神はもう一度イスラエルの国に関わられます。イスラエルのような小さな国が、今、多くの人々の関心を得ているのは偶然ではありません。その日が近づいている証拠だと言えます。

「わたしが彼らを国々の民の間から帰らせ、彼らの敵の地から集め、多くの国々が見ている前で、彼らのうちにわたしの聖なることを示すとき、彼らは、わたしが彼らの神、主であることを知ろう。」(27,28節)

1948年5月14日以来、この預言は成就しています。さらに興味深いことは、15節、その日の前に、死体を見つけると、見つけた人が葬らずに標識を立て、専門の人に葬らせると記されています。つまり、化学兵器の影響が考えられます。エゼキエルの時代に化学兵器はありません。エゼキエルがこの世の終わりに起こる出来事として見たとするならば、心に留める必要があるのではないでしょうか。
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I calculate everything as a loss, because knowing King Jesus as my Lord is worth far more than everything else put together! (Phil.3:8KNT)
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エゼキエル 38章

「多くの日が過ぎて、あなたは命令を受け、終わりの年に、一つの国に侵入する。その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる」(8節)

38章は終わりの日の預言だと考えられています。チャック・スミス師は、この38章に出てくる国々は、イスラム圏の国々で、イラン、エチオピア、リビア、そして旧ソ連の南部のイスラム圏の国々を指していると言います。これらの国がやがて結束してイスラエルに攻め入ると言います。9節の「地をおおう雲」は、戦闘機の一団ではないかと言われます。もちろんエゼキエルが戦闘機を知る由もありませんから、彼は「地をおおう雲」としか表現できなかったのだと。今の世界情勢は、私たちに対する警告であるということを心に留めたいと思います。

エゼキエル 37章

「そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」」(9節)

骨は完全な死を表わします。完全な死を、神は『生』に変えることができる絶対的な力と権威をもっておられます。私たちの人生が『死』のように感じ、たとえ誰もどうすることのできないような状況に置かれたとしても、神はそこから命を造り出すことのできる全能なるお方です。ここで言う『息』とは、14節にあるように、『神の霊』、『聖霊なる神』のことです。「その息に言え」と神が言われるように、私たちは聖霊なる神に「吹きつけてください」、「満たしてください」と、祈り求める必要があります。イエス・キリストも言われました。

「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:13)

エゼキエル 36章

「だが、おまえたち、イスラエルの山々よ。おまえたちは枝を出し、わたしの民イスラエルのために実を結ぶ。彼らが帰って来るのが近いからだ。」(8節)

 預言者は言います。「イスラエルには、良い時代が戻ってくる。」(8節LB)
なぜならば、

「わたしはおまえたちのところに行き、おまえたちのところに向かう。」(9節)

と神が言われるからです。イスラエルの国にとって一番大切なことは、神の臨在でした。神の臨在のある所では、土地は耕され、種が蒔かれ、人は増え、廃墟は建て直されます。ですから神は言われます。

「以前にもまさって、おまえたちを栄えさせる。その時おまえたちは、わたしが神であることを知る。」(11節LB)

神の臨在の中で、その結果、神が与える祝福の中で、私たちは神を体験します。バビロンに捕囚された身であったエゼキエルにとって、これは夢のような話でした。しかし、神に不可能はありません。これが、現実となりました。

エゼキエル 35章

「おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した。」(5節)
 
セイル山に住んでいた人々とは、すなわちエサウの子孫、エドム人のことだと考えられます。彼らは、イスラエルの民がエジプトから約束の地に向かう途中でもその道をさえぎり、数々の嫌がらせを行いました。この箇所にも記されているように、イスラエルを憎み続けたのです。それは世代が代わってもなお受け継がれてゆき、ついにはバビロンが南ユダ王国を攻撃した際、その混乱に乗じて多くの痛みをもたらした民族でもありました。彼らの動機は、憎しみ、敵意であり、彼らは徹底的にイスラエル人を苦しめました。結局、彼らの憎しみは、憎む相手だけではなく、自分自身にも破壊をもたらしました。神様は私たちがいつまでも敵意を抱くことはやめなさいと言われます。(エペソ4:26,27参照)

今日は主の日。十字架によって敵意を廃棄されたイエス(同2:15)を礼拝しましょう。