エステル 7章

「こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。」(10節)

 この話は、ただ、悪者ハマンがやっつけられて、めでたしめでたしという類の話なのでしょうか。新約聖書の光から考えると、敵でさえ愛するように命じられたイエス様の話と矛盾する感じもします。新約聖書的には、エペソ書6章にあるように私たちの本当の敵は、血肉をもった人間ではなく暗闇の支配者である悪魔です。では、何を神様はここから私たちに語っているのでしょうか?注目すべきポイントは、ハマンは、モルデカイのために柱を用意していて、しかもそれに自分がかけられたほど、準備は完全に整っていたということです。将棋で言うところの次の一手で詰む状況です。ところが大逆転が起きました。私たちも、モルデカイのように、99パーセント詰められたような状況においても、希望を捨てるべきではありません。神様は大逆転の神様だからです。

エステル 5章

「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」(8節)

エステルが、どうしてすぐに言わずにじらしたか私たちには分かりません。しかし、私たちが知っているのは、そのおかげで、王はモルデカイのことをもう一度心にとめる機会が与えられたこと、そして事がスムーズに進んだということです。これは、「神の時」があるということです。今、うまくいかない理由は、必ずしも行なっている内容が問題だとは限りません。単に、その時ではないという場合も考えられます。何でも挑戦することは大切なことですが、静まって、神の時を待ち望むことも大切なことです。

「主よ、あなたの時を教えてください。」

エステル 4章

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユ
ダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなた
がこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」
(14節)

神さまは、私たちひとりひとりに目的をもっておられます。私たちが経験してき
たこと、また、今与えられている環境も、すべて神さまの御手の中にあります。
しかし、神さまは同時に私たちに自由意思を与えられました。神さまは私たちに
目的をもっておられますが、それに応答するかしないかは、私たちの側に任され
ています。ですから、日々、祈りましょう。
「主よ、あなたは目的をもって私を造られました。ですから、私はその目的に生
きたいのです。今日、私が何をなすべきかを教えてください。私はあなたのみこ
ころに従います。」
主が与えられた機会(チャンス)に応答していくことができますように。

エステル 3章

「それで、王の門のところにいる王の家来たちはみな、ハマンに対してひざをかがめてひれ伏した。王が彼についてこのように命じたからである。しかし、モルデカイはひざもかがめず、ひれ伏そうともしなかった。」(2節)

  これは、ただ単にお辞儀をしなかったという意味でなく、人間を神として礼拝しなかったということです。歴史を通じて多くのクリスチャンたちが信仰のために殉教していきました。戦時中の日本でも、多くのクリスチャンが殉教しました。マルチン・ルターはかつて言いました。「ヴィッテンベルグの屋根の瓦がみなサタンでも、我、ここに立つ。」ひとりぼっちでも、味方が誰一人いなくても、信仰に堅く立つことは大事なことです。信仰の先輩達のように、イエス・キリストは、命にもまさるほどの存在でしょうか?

「誰も私についてこなくても、私はそれでもついていく」(Though no one follow me, still I will follow.)

エステル 2章

「このことがモルデカイに知れたので、彼はこれを王妃エステルに知らせた。エステルはこれをモルデカイの名で王に告げた。このことが追及されて、その事実が明らかになったので、彼らふたりは木にかけられた。このことは王の前で年代記の書に記録された。」(22、23節)

モルデカイは、アハシュエロス王の暗殺計画を知り、王妃エステルに告げました。エステルは、モルデカイの名でそのことを告げ、そのことが記録されました。二つのポイントがあります。一つは、私たちの善行は記録されるということです。神を恐れ、施しをし、神に祈るコルネリオの前に天使は現れ、こう言いました。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。」(使徒10:4)誰も見ていなくても、見返りがなくても、神は覚えておられます。二つ目のポイントは、神の摂理は私たちの想像を超えているということです。この付けたしのように見える出来事が驚く結末をもたらします。小さなことにも忠実であれますように。

エステル 1章

「そこで王は法令に詳しい、知恵のある者たちに相談した。」(13節)

エステル記のテーマの一つは「神の摂理」で、全ては神のみ手の中で良しとされます。しかし、学ぶべきこともあります。アハシュエロス王が宴会を催し、王妃のワシュティも婦人たちのために宴会を催していました。酒で心が陽気になったアハシュエロス王は、ワシュティの気持ちも考えずに、彼女の容姿の美しさを自慢するために、酒席にくるように命じます。ワシュティが断ると、王は怒り、そして知恵のある者たちと相談します。すると、妻が夫を尊敬するようにワシュティを追放するように、賢人たちは進言します。もちろん、権力で尊敬を勝ち取ることができるはずがありません。アハシュエロス王は結局、自分がしたことを後悔します。この世の知恵を求めるよりも先に、私たちは祈る必要があります。使徒パウロは言いました。

「神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。」(Ⅰコリント1:20)

ネヘミヤ 13章

「私の神。どうか、このことのために私を覚えていてください。私の神の宮と、その務めのためにしたいろいろな私の愛のわざを、ぬぐい去らないでください。」(14節)

ネヘミヤがバビロンからエルサレムに戻ってくると、

「私は、レビ人の分が支給されないので、仕事をするレビ人と歌うたいたちが、それぞれ自分の農地に逃げ去ったことを知った。」(10節)

とあります。人々は「働き人」(レビ人)を軽視し、「働き人」は奉仕し続けることができなくなってしまいました。問題は、イスラエルの人々が神殿をないがしろにしていたことでした。ネヘミヤは、神殿をないがしろにしていた指導者たちに言います。

「どうして、神殿をそんなにないがしろにするんだ」(11節LB)

私たちはどうでしょうか?

「キリストのからだ」である教会をないがしろにしていないでしょうか?

ネヘミヤは、神を大切にするがゆえに、神殿を大切にしました。この姿勢がネヘミヤの人生を祝福しました。

ネヘミヤ 12章

「こうして、彼らはその日、数多くのいけにえをささげて喜び歌った。神が彼らを大いに喜ばせてくださったからである。女も子どもも喜び歌ったので、エルサレムの喜びの声ははるか遠くまで聞こえた。」(43節)

  礼拝の中心が賛美の歌を神様に捧げることであったことが、この箇所から感じることができます。しかも、女性も子供も一緒に喜び歌ったとあります。さらに、「喜びの声ははるか遠くまで聞こえた」という箇所から、結構大きな音だったことが想定されます。しかし、だからといって無秩序であったわけではありません。46節には「昔から、ダビデとアサフの時代から、神に賛美と感謝をささげる歌うたいたちのかしらがいた。」とあるように、ソング・リーダー、いわゆる音楽担当牧師が導いていたことも分かります。聖書が私たちに伝えていることは、神様はそれほど私たちの賛美の歌声を望んでおられるということです。

ネヘミヤ 11章

「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。」(2節)

10パーセントの人は、強制的にエルサレムに住んだのですが、それ以外の人は、自分から進んで住んだとあります。教会も、教職やスタッフと呼ばれるいわゆる献身者が奉仕することはあたりまえのことですが、さらに自発的に奉仕する人たちがいて成り立つ所があります。そして、人々は自発的にした人たちを祝福したとあります。使徒パウロは言いました。

「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」(Ⅱコリント9:7)

この箇所は献金に関する箇所ですが、この原則はいろいろなことにも適用することが出来ると思います。強制されてではなく自発的に奉仕する人を人々が祝福するだけでなく、神様ご自身が祝福してくださいます。

ネヘミヤ 10章

「こうして私たちは、私たちの神の宮をなおざりにしないのである。」(39節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「このように、私たちは神殿をなおざりにしないことで一致したのです。」

私たちは信仰を個人的なものとしすぎる傾向があると思います。もちろん、イエス・キリストを自分の救い主として信 じ、受け入れることから信仰生活は始まります。しかし、それはまた信仰の共同体である「キリストのからだ」である教会の一員になるという意味があります。 教会をなおざりにした信仰生活というのは、聖書的にはありえません。イスラエルの人々は、自分と神様との関係が大事だから、神殿はどうでもいいとはしませ んでした。詩篇にもこういう箇所があります。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」(133:1新共同訳)

何ができなくても、教会で共に座って礼拝を神様に捧げるだけでも、大切なことです。