Ⅱ列王記 18章

「彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセ
の作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたい
ていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」(4節)

荒野を旅していたイスラエルの民が、民数記二一章で、神様にぶつぶつ文句を言
い始めた出来事が記されています。神様が彼らをマナで養っていたのに、彼らは
言いました。「私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」(5節)それで神
様は燃える蛇を送り、多くのイスラエルの人々が蛇に噛まれて死にました。モー
セは、神様が命じられたように一つの青銅の蛇を作り、人々がその青銅の蛇を見
上げると、生きました。しかし、イスラエルの人々は、今度はその青銅の蛇を礼
拝するようになってしまいました。神の約束に対する信仰が彼らをいやしたので
あって、青銅の彫像物がいやしたわけではありません。奇跡を行われる神ではな
く、その道具を崇めていないでしょうか。

Ⅱ列王記 17章

「彼らは今日まで、最初のならわしのとおりに行なっている。彼らは主を恐れているのでもなく、主が、その名をイスラエルと名づけたヤコブの子らに命じたおきてや、定めや、律法や、命令のとおりに行なっているのでもない。」(34節)

17章は北イスラエル王国の滅亡について記されています。神様に背を向け続けた北王国は、アッシリヤ帝国に滅ぼされ、アッシリヤ帝国に連れ去られてしまいます。そしてこの北王国、すなわちサマリアの町々には他国の人々が移住させられました。移住した人々は、神様を礼拝する方法を教えられます。しかしそれは、形式的なものだったことが記録されています。信仰生活も、気をつけないと以前からの風習を踏襲するだけの形式的なものに陥る可能性があります。私たちは神様が何と語られているか、真剣に、神のみことばである聖書に耳を傾ける必要があります。伝統や伝承ではなく、聖書に聞く姿勢が求められています。

Ⅱ列王記 16章

「アハズ王がアッシリヤの王ティグラテ・ピレセルに会うためダマスコに行ったとき、ダマスコにある祭壇を見た。すると、アハズ王は、詳細な作り方のついた、祭壇の図面とその模型を、祭司ウリヤに送った。」(10節)

アハズ王は、アッシリヤ帝国の力の背後に、彼らの神々の存在があると考えました。それで、アッシリヤ帝国と同じ神々を礼拝すれば、イスラエルの国も繁栄すると短絡的に考えます。悲しいことに、祭司たちもそれに従い、生ける神の神殿はアッシリヤ帝国の神々のために変えられてしまいます。問題の根底にあるのは、神を神として認めず、自分の利益のために利用できるかどうかとしか見ていないという姿勢です。そのように自分が利用できる範囲で神を認めようとするならば、結局自分の思い通りにならなければ、簡単に神を乗り換えていいと思うようになります。十字架にかかられた生ける神は、私たちの思い通りにはなりません。神は神であり、人は人です。

Ⅱ列王記 15章

「彼はすべて父アマツヤが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。」(3節)

15章は、ユダとイスラエルの王たちの事跡が次々とわずかな言葉によってまとめられています。一人一人の人生には様々な出来事があったはずです、しかし、どんな王の人生も数行で片付けられています。榎本保郎師はこう言っています。「しかし、聖書はそうした王たちの事跡を記しながら、最後に必ず彼が神に対してどのように生きたかを記している。このことは私たちの人生にとって何が最も重要なことであるかを示しているのではなかろうか。」人生は結局のところ、私たちが神様に対してどのように生きたかが問われます。さらに榎本師はこう言います。「しかし、そうした生き方は見よう見まねによることが多い。」アザルヤは主の目にかなうことを行いましたが、父が行なったとおりにと聖書は言います。私たちの生き様が、次世代に受け継がれていくということを心にとめたいと思います。

Ⅱ列王記 14章

「あなたは、エドムを打ちに打って、それであなたの心は高ぶっている。誇ってもよいが、自分の家にとどまっていなさい。なぜ、争いをしかけてわざわいを求め、あなたもユダも共に倒れようとするのか。」(10節)

  ユダの王、アマツヤはエドム人に勝利して、心が高ぶり、イスラエルの王ヨアシュを挑発し、争いをしかけました。しかしその結果、ユダはイスラエルに打ち負かされてしまいます。挑発したり、争いをしかけたりするのは、聖書的ではありません。聖書は言います。「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。」(ローマ12:18口語訳)私たちは挑発したり、争いをしかけたりするべきではありません。どんなに成功をおさめても、思いあがらず、高ぶらず、神様の前に謙遜に歩む姿勢が大切です。「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(Ⅰペテロ5:5)

「主よ、高慢からお守りください。」

Ⅱ列王記 13章

「しかし、エホアハズが主に願ったので、主はこれを聞き入れられた。アラムの王のしいたげによって、イスラエルがしいたげられているのを見られたからである。」(4節)

 エホアハズは悪い王でした。「ところが、エホアハズ王が助けを祈り求めると、神様はその願いを聞き入れてくださったのです。」(LB)エホアハズ王は、「主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかった」(2節)のです。しかし、神様はそんな彼の祈りを聞かれたというのです。「神様は罪人の祈りを聞かれない」とよく言われますが、聖書的ではありません。神様は罪人であっても、心から主を求めて祈る人の祈りを聞かずにおられないお方です。へりくだり、神を求めて祈れる人には望みがあります。

「主よ、あなたが祈りを聞かれる主であることを感謝します。」

Ⅱ列王記 12章

「ヨアシュは、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行
なった。」(2節)

 ヨアシュ王は祭司エホヤダが生きている間は、神様を喜ばせようと一生懸命に
努力しました。しかし、歴代誌第二を見るとこうあります。「エホヤダが死んで
後、ユダのつかさたちが来て、王を伏し拝んだ。それで、王は彼らの言うことを
聞き入れた。」(24:17)ヨアシュは自分を伏し拝む人々によって傲慢に
なってしまったのか、結局、自分にひれ伏す高官たちに操られてしまいます。そ
の時、祭司エホヤダの子ゼカリヤに聖霊が臨みました。「なぜ神様の戒めに背い
ているのか、神様は、そのわけを知りたいと言っておられる。こんな状態では、
何をしても失敗に終わるだけだ。」(20節LB)傲慢になってしまったヨア
シュ王は、彼に対して愛と忠誠を尽くした祭司エホヤダの子ゼカリヤの言葉にも
耳を傾けられなくなってしまいました。学ぶ心を失うことは、恐ろしいことです。

Ⅱ列王記 11章

「こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、『王さま。ばんざい。』と叫んだ。」(12節)

 ユダの王、アハズヤが死んだ時、その母、アタルヤは、王の一族をことごとく滅ぼして、自分が王となりました。王の一族というのは、神様が約束されたダビデ王の子孫という意味です。もし、本当に王の一族が全滅していたら、ダビデの子孫から救い主が生まれるという預言は成就することはありませんでした。ところが、一歳だったヨアシュは、叔母のエホシェバに助け出されました。その後、六年間、身を隠していましたが、七年目に、祭司エホヤダが、ダビデの子孫、ヨアシュを王と宣言しました。どんなに悪魔が邪魔をしても、神様の約束は必ず成就します。

「主よ、あなたの約束は、どんな攻撃があっても必ず成就することを感謝します。」

Ⅱ列王記 10章

「しかし、エフーは、心を尽くしてイスラエルの神、主の律法に歩もうと心がけず、イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪から離れなかった。」(31節)

 エフーはイスラエルの国における宗教改革を徹底的に行った人物だと考えられていました。彼はイスラエルにバアル宗教を導入したイゼベルをはじめ、バアル礼拝者を一掃しました。しかし、聖書は言います。「ところがエフーは、真心から神様に従おうとはしませんでした。」(LB)エフーは確かに神様に従って、イスラエルの中にあった悪を一掃しました。しかしチャック・スミス師は、エフーはこれらを政治的な動機でしていただけで、霊的な動機ではなかったと指摘します。エフーの動機は、神様に対する畏れではなかったと言うのです。今も昔も、宗教戦争という名目で利権の戦争が世界中で起こっています。私たちは表面的な部分で判断しないように気をつける必要があります。神様は心を見ます。

9月の日曜日 September Sundays

2日 ガラテヤ書2:1-:13 「キリストの中に持てる自由」 

小山英児牧師

9時(HC)、10時半(HC)、18時(HC) (HC)=聖餐式

 9日 ガラテヤ書2:14-:21 「神の恵みを無にしない」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

 16日 ガラテヤ書3:1-:6 「聖霊によってはじまる」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

23日 ガラテヤ書3:7-:14 「信仰の人」 

小山英児牧師

9時、10時半、18時

30日 ガラテヤ書3:15-:18 「その約束は空しくなるようなことはない」

 小山英児牧師

9時、10時半、18時

※ガラテヤ書は、新約聖書の中にある使徒パウロがガラテヤの教会に宛てた手紙です。