Ⅰコリント 4章

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(5節)

パウロは、あくまで主が裁かれるのだから、私たちが互いに結論を下すべきではないと主張します。彼自身、自分でも裁かないとまで言います。LBでは、このように訳しています。「ですから、主がまだお帰りにならないうちから、ある人が良い家来かどうか、せっかちに結論を下すことがないように注意しなさい。主が来られる時、すべては明るみに出されます。一人一人の心の奥底までが見通され、ありのままの姿が、だれの目にもはっきり見えるようになります。その時、私たちが、なぜ主の仕事をしてきたのか、だれにもわかるようになります。そして、一人一人が、ふさわしい賞賛を神様から受けるのです。」

Ⅰコリント 3章

「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(17節)

パウロははっきりと「神の神殿」は教会のことだと言います。キリスト教信仰は、神との個人的な関係という部分がありますが、「あなたがた」という共同体の部分があります。個人主義は教会ではありません。私たちは互いを必要としています。祈り合う共同体を必要としています。パウロはそしてここで、祈り合う共同体を否定したり、攻撃したりすることに対して警告を発しています。パウロの時代に、ヘブル書10章25節を見ますと、教会に集まることを否定していた人たちがいたことが分かります。パウロは明らかに、教会を建て上げることを否定する人たちを意識して、この警告を発しているのだと思われます。教会を建て上げることを邪魔する人は、神が介入されます。私たちは、教会を建て上げることを大切にしましょう。

Ⅰコリント 2章

「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。」(14節)

  キリスト教会のあり方は、一般企業とは違います。収益(利益)をあげるためではなく、捧げるために存在するということ自体、愚かに感じます。しかし、キリストを信じている者は、聖霊が心に住んでいるがゆえに、愚かに見えても、他者のために祈り、捧げていきます。神を信じない人は、神に賛美、祈り、礼拝を捧げることは、愚かに見えるものだと思います。しかし、まことの神を知った者は、聖霊なる神様のゆえに、それがどんなに大切なことか分かるものです。ですから、この世の常識で教会を運営しようとするならばおかしくなってしまいます。教会は聖霊なる神様を認め、聖霊なる神様の導きに生きる必要があります。