2ペテロ 2:10-16

「口のきけないろばが人間の声で話して、この預言者の正気を失ったふるまいをやめさせたのです。」(2:16)

べオルの子バラムの話は民数記22章に出てきます。

イスラエルの民が約束の地に向かう途中、モアブの王バラクは恐怖を抱きます。

それでバラムにイスラエルの民を呪って欲しいと依頼します。

バラムがろばに乗ってバラクのところに行く途中、ろばが人間の声で話したとあります。

あなたがわたしの道を踏み外していたからだ」(民数記22:32)

と主の使いが言っているところを見ると、バラムは主の命を破ることは断じて出来ないと口では言っていたものの、占い料に目がくらみ、神に逆らい、神が祝福された民を呪うことを考えていたということかもしれません。

この者たちは厚かましく、わがままで、栄光ある人たちをののしって恐れません。」(10節)

とあるように、ここで問題となっているのは、主のしもべたちをそしったり、批判したりしてはいけないということです。

2ペテロ 2:1-10

「そして、不道徳な者たちの放縦なふるまいによって悩まされていた正しい人、ロトを救い出されました。この正しい人は彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたのです。」(2:7,8)

私たちは、この世に生きていますが、この世に染まる必要はありません。

道徳的な堕落が叫ばれるこの世の中で敬虔に生きることを選ぶことは、時には悩まされ、心を痛めるものです。

しかし聖書はこの世界に終わりがあることを明確に伝えています。

そして、この世界が終わる前に、大患難時代と呼ばれる時が来ることも伝えています。

キリストを信じる者は、ロトが救い出されたように、その大患難時代から救い出されます。

その日は遠くありません。

アドベントの時こそ、確実にその日に向かっていることを意識する時です。

キリストは再び来られます。

だからこそ、堅く節操を保ちキリストを待ち続ける姿勢が大切です。

2ペテロ 1:12-21

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」(1:20,21)

聖書を自己流で解釈することは、聖書が禁じることです。

聖書の一箇所だけをとって、自己流の教えを作り出してはいけません。

また、文脈を無視して何でも象徴的(霊的?)に解釈することも、聖書は禁じています。

まず、聖霊に導かれてその箇所を記した聖書記者の意図をくみ取る作業が必要です。

たとえば、今日の箇所で「ペテロがどうしてこのようなことを書いたのか?」と問う必要があります。

理由は明らかに、聖書のことばを利用して、様々なことを言う人たちがいて混乱が生じていたからです。

聖書は聖書に解釈させることが大原則です。

聖書は、聖書全体から解釈するものです。

ですから、私たちは創世記から黙示録まで聖書全体を読み、学ぶ必要があります。

2ペテロ 1:1-11

「神と、私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたにますます豊かに与えられますように。」(1:2)

ペテロがこの手紙で強調していることは、イエス・キリストを知ることです。

LBではこう訳しています。

あなたがたは、神の恵みと平安をもっと多くいただきたいと願っているでしょう。それなら、イエス・キリストについてもっと深く学んでください。

もちろん、イエス・キリストがどういうお方か、聖書を通してその知識を深めることも大切です。

しかし、それだけでなく、イエス・キリストとの親しい関係を体験する必要があります。

イエス・キリストは、2000年前に存在していたというだけではありません。

死を打ち破ってよみがえられたイエス・キリストは今も生きて働かれています。

イエス・キリストは、単なる概念ではありません。

今、生きておられる現実であり、今も、私たちと出会ってくださるお方です。

ヨハネ 3:22-30

「あの方は盛んになり、私は衰えなければなりません。」(3:30)

クリスマスの本当の主人公はイエス・キリストです。

「マス」はミサという意味です。

「キリストのミサ」がクリスマスの原意です。

サンタマスでもショッピングマスでもありません。

キリストマスでクリスマスです。

バプテスマのヨハネの弟子たちは、人々がヨハネから離れてイエスのところに行くことに懸念を抱きました。

しかし、バプテスマのヨハネは、自分の役割をよく理解していました。

だから彼はイエスを指し示し続けました。

これが、私たちの姿であるべきです。

私たちの役割も人々を自分の方に向けることではなく、キリストの方に向けることです。

私たちの役割はイエスの御名が高く掲げられることです。

イエス・キリストの栄光だけが輝き、私たちの存在は薄れていくことです。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

2テサロニケ 3:6-18

「どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように。」(3:16)

イエス・キリストは「平和の君」として生まれました。

その名はインマヌエルと呼ばれると言います。

その意味は、ともにいてくださる神です。

平和の君は私たちと共におられ、私たちに平和を与えてくださいます。

神の子どもと呼ばれる人は、平和をつくる者です。(マタイ5:9)

聖書の御言葉に従わない人たちに対して注意するようにパウロは厳しい言葉で勧めます。

「もし、この手紙に書いた指示に聞き従わない者がいれば、そのような人には特に注意し、交際しないようにしなさい。自らそのことに気づいて恥じ入らせるためです。しかし、その人を敵視するのではなく、兄弟に対するように忠告しなさい。」(14,15節LB)

大事なのは、「敵とは見なさないで、兄弟として」という点だと思います。

2テサロニケ 2:13-3:5

「ですから兄弟たち。堅く立って、語ったことばであれ手紙であれ、私たちから学んだ教えをしっかりと守りなさい。」(2:15)

「私たちから学んだ教え」とは、使徒たちの教えが収録されている聖書のことです。

いつの時代も、聖書の教えに堅く立ち、しっかりと握る必要があります。

LBは「説教や手紙で伝えた教え」とありますが、私たちは説教であれ、文書であれ、聖書の御言葉を教え続ける責任があります。

だから、パウロは言います。

愛する皆さん。この手紙を書き終えるにあたって、お願いしたいことがあります。どうか、私たちのために祈ってください。主のことばが至る所で急速に広まり、あなたがたのところで起きたと同じように、各地で救われる人が起きるように祈ってください。」(3:1LB)

このクリスマス、聖書の御言葉が広まるために祈ってください。

主は私たちの祈りを用いられます。

2テサロニケ 2:1-12

「さて兄弟たち。私たちの主イエス・キリストの来臨と、私たちが主のみもとに集められることに関して、あなたがたにお願いします。」(2:1)

2千年前にキリストがこの地にお生まれになられたように、キリストは再び来られます。

しかし、そのことに関して注意する必要があると言います。

愛する皆さん。主の日はもう来たなどといううわさを耳にして、興奮したり、あわてたりしないでください。たとえ、このことについて幻を見たとか、神から特別のお告げを受けたとか言う人が現れても、また、私たちから送られたもののように偽造した手紙を見せられても、信用してはいけません。どんなことを言われても、惑わされたり、だまされたりしないように気をつけなさい。」(2,3節LB)

今も再臨のキリストだと自称する人がいますが、絶対に信用してはいけません。

自分こそ神だと宣言する人を信じてはいけません。(4節)

それは偽キリストです。

2テサロニケ 1:1-12

「その日に主イエスは来て、ご自分の聖徒たちの間であがめられ、信じたすべての者たちの間で感嘆の的となられます。そうです、あなたがたに対する私たちの証しを、あなたがたは信じたのです。」(1:10)

クリスマス、主イエスはみどり子として生まれました。

その時、天使たちは夜空に現れて神を賛美しました。(ルカ2:13)

主イエスが再び来られる時は、

燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れる」(7節)

と言います。

再び来られた主は、その日、ご自分のものであるクリスチャンたちによって、誉れと賞賛とをお受けになります。そして、私たちが伝えた神のことばを信じ抜いたあなたがたは、主と共に生きる者となるのです。」(10節LB)

大事なことは、使徒たちの証であり、使徒たちが伝えた神のことばである聖書の御言葉を信じ抜くことです。

1テサロニケ 5:12-28

「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。あなたがたの霊、たましい、からだのすべてが、私たちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのないものとして保たれていますように。あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」(5:23,24)

キリストの御降誕を覚えるアドベント(待降節)は、キリストの再臨を覚える時でもあります。

キリストの再臨を意識したパウロの祈りはこれでした。

あなたがたの霊とたましいと体とが、いつも健全で、主イエス・キリストが再び来られる時、少しも非難されない者としてくださいますように。」(LB)

体だけでなく、霊もたましいも健康であることが大切です。

だから聖書は言います。

いつも喜びにあふれていなさい。いつも祈りに励みなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(16-18節)