エペソ 1章

「私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。」(1:3)

聖書の神は父、子、聖霊の三位一体なる神です。

父なる神は、キリストにあって私たちを祝福してくださいます。

「すべての霊的祝福」というのは「物質的」な祝福との比較ではありません。

「世俗的」とか、「この世的」との比較でもありません。

キリストを信じる者の内に住んでくださる「聖霊なる神様」によってもたらされるあらゆる祝福という意味です。

フィー博士はこの祝福をこのように解説します。

「神の愛が贖いを始めます。キリストの死は歴史的に贖いをもたらし、聖霊は贖いを信者と信者の共同体の生活に適用します。」

「天上」は神の領域のことですが、神の臨在の中で、聖霊の祝福が解き放たれます。

ルカ 2:15-20

「そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。」(2:16)

有名なクリスマス・キャロルの一つは、「いそぎ行きて拝まずや」と歌います。

それは、今日の箇所の羊飼いたちの言葉であり、

「ぜひ急いで行って礼拝しよう」

という意味です。

「いつか行こう」と思っていると、行きそびれてしまうこともあります。

「善は急げ」とも言いますが、自分の用事よりも、イエス様を礼拝することを優先するというその姿勢が大切であることを、この羊飼いたちの姿から学ぶ必要があると思います。

「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」(20節)

とあるように、私たちはそのようにして神を体験します。

今日はクリスマス。

羊飼いのように「いそぎ行きて拝まずや」と、主イエス・キリストに共に礼拝を捧げましょう。

ルカ 2:1-14

「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)

クリスマスの日、イエス・キリストは宿屋ではなく、家畜小屋で生まれました。

なぜなら、「彼らのいる場所がなかったから」です。

神が人となって生まれるというのに、場所がなかったというのはなんという悲劇でしょうか。

しかし、今も多くの人たちの心には、イエス・キリストのいる場所がありません。

イエス・キリストは言われました。

「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(3:20)

このクリスマス、一人でも多くの人が、キリストに心を開くことができますように。

キリストのいる場所を設け、本物のクリスマスを体験することができますように。

ルカ 1:39-56

「エリサベツがマリアのあいさつを聞いたとき、子が胎内で躍り、エリサベツは聖霊に満たされた。」(1:41)

マリアは天使ガブリエルから親類のエリサベツの事を聞いて、

「山地にあるユダの町に急いで行った。」(39節)

とあります。

マリアはイスラエル北部の

「ナザレという町」(26節)

にいましたから、イスラエル南部のユダの町に行くのには、それなりの旅だったことがわかります。

マリアがエリサベツにあいさつをした時、エリサベツの胎内にいたバプテスマのヨハネは躍り、エリサベツは聖霊に満たされたと言います。

神の御言葉に従順して行動を起こす時に、神の祝福は満ち溢れます。

だから、エリサベツは言いました。

「主によって語られたことは必ず実現すると信じた人は、幸いです。」(45節)

神の御言葉に生きる人は幸いです。

その人は、自分だけでなく、周りの人も満たします。

ルカ 1:26-38

「マリアは言った。「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように。」すると、御使いは彼女から去って行った。」(1:38)

天使ガブリエルがマリアに会いに来た時、マリアはまだ十代だったと言われます。

おめでとう、マリア」(28節)という挨拶の言葉が「アヴェ・マリア」です。

突然、救い主を身籠るという話は、マリアには受け入れ難い内容だったと思います。

どうしてそのようなことが起こるのでしょう」(34節)

とマリアが言うのも無理はありません。

しかし、ガブリエルは言います。

「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」

「神にとって不可能なことは何もありません。」(35,37節)

マリアの素晴らしいところはその応答です。

彼女は頭では理解できなくても、神を信頼し、そのみこころに従順しました。

マタイ 1:18-25

「「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。」(1:23)

「インマヌエル」は「インマヌ」が「私たちと共に」(with us)、「エル」が神(God)という意味です。

イエス・キリストの誕生は、神が遠い、現実離れした存在ではないことを示します。

神は人となって、私たちの間に住まわれました。

栄光の御座を離れて、ご自分を空しくされ、脆弱な赤子として生まれてくださいました。

すべての点において、私たちと同じ試みにあわれたので、私たちの弱さに同情してくださいます。

ですから、私たちは大胆に恵みの御座に近づくことができます。

インマヌエルと呼ばれる救い主は、私たちと共におられます。

マタイ 1:1-17

「それで、アブラハムからダビデまでが全部で十四代、ダビデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代となる。」(1:17)

アブラハムからダビデまで、ダビデからバビロン捕囚までは、旧約聖書に書かれている内容です。

しかし、バビロン捕囚からキリストまでの出来事の多くは、旧約聖書にも新約聖書にも出てきません。

この中間時代の出来事を記したものを聖書協会共同訳は「続編」(外典)として聖書の中に加えていますが、プロテスタント教会は認めていません。

なぜなら、「続編」は神の霊感を受けて書かれたものではないからです。

要するに、神のことばではないからです。

しかし、イエス・キリストの誕生の前にどんなことがあったかを知ることはできます。

系図はアブラハムから始まっています。

神がアブラハムに与えた約束は

地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:3)。

キリストはすべての人の救い主として生まれました。

ヨハネ3:16-21

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

アドベント・キャンドルの四本目が灯る今日が、教会の暦ではクリスマスです。

クリスマス、それは、神がそのひとり子イエス・キリストを私たちにお与えになった日です。

神は一人として滅びることを望まれません。

すべての人が救われ、永遠のいのちを持つことを望まれています。

だから、イエス・キリストはこの世に誕生し、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、よみがえられました。

今、誰でもイエス・キリストを信じるならば救われます。

この素晴らしい知らせ(福音)を一人でも多くの人に伝えることができますように。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

ユダ 17-25

「あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びとともに栄光の御前に立たせることができる方、私たちの救い主である唯一の神に、私たちの主イエス・キリストを通して、栄光、威厳、支配、権威が、永遠の昔も今も、世々限りなくありますように。アーメン。」(24,25)

主なる神は、私たちがつまずいたり、倒れたりしないように守ってくださる方です。

そのために、私たちの側がすべきことは、その前の20,21節に書いてあります。

あなたがたは、今のきよい信仰を土台として、自分の生活をしっかり打ち立てなければなりません。そして、聖霊の力と励ましを受けて祈り、いつも神の愛のうちにいなさい。そうすれば、神から祝福がいただけます。永遠のいのちに至らせる、主イエス・キリストの恵みを待ち望みなさい。」(LB)

「神の愛のうちにいなさい」とあるように、神の愛の中に留まることが求められています。

2ぺテロ 2:17-22

「その人たちに自由を約束しながら、自分自身は滅びの奴隷となっています。人は自分を打ち負かした人の奴隷となるのです。」(2:19)

聖書は、多くの人は自由と言いながら、実は滅びの奴隷となっていると言います。

LBではこう訳しています。

彼らはこう言います。「善人になったからといって、救われるとは限らないなら、いっそのこと、悪いことをしたほうがましじゃないか。やりたいことをやるのが自由というものだ。」このように、彼らは「自由」を教えながら、自分自身が罪と滅びの奴隷になっているのです。何かに支配されている人は、その奴隷なのです。

自由は複雑です。

ある人は自分が稼いだお金を何に使おうと自由だと言います。

しかし、生活の基盤を損なうような使い方をするならば、人生をおかしくします。

それは自由と呼べるでしょうか。

自由は自分自身を滅ぼす自由になりかねません。

聖書が教える道徳的に正しい生活を心がけることは大切なことです。