1サムエル 2:22-36

「人が人に対して罪を犯すなら、神がその仲裁をしてくださる。だが、主に対して人が罪を犯すなら、だれがその人のために仲裁に立つだろうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。」(1:25)

祭司エリの息子たちの非道は、神に対する恐れのなさの現れであり、それゆえ、神の裁きが「みこころ」と宣言されます。

聖書は神を侮らないように何度も警告しています。

聖書は言います。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります。」(ガラテヤ6:7-9)

聖なる畏れをもって、善を行い続けましょう。

神はすべてをご存じです。

1サムエル 2:12-21

「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。」(2:18)

少年サムエルと祭司エリの子どもたちの姿が対比されています。

「亜麻布のエポデ」は、奉仕に携わる者たちによって着用された衣であり、サムエルが幼いながらに誠実に奉仕をしていたことがわかります。

しかし、エリの息子たちは神への聖務を侮りました。

その理由を聖書は明確にこのように言います。

主を知らなかった。」(12節)

知識や儀式的な訓練を受けてはいたはずです。

しかし、彼らは主なる神との人格的な交わりがなかったということです。

ですから、主なる神に対する健全な畏れがありませんでした。

主を知らない人、主を恐れない人が聖務につくことほど恐ろしいことはありません。

なぜなら、神への聖務を軽視する罪を神は見過ごされることはないからです。

私たちは聖なる畏れをもって主に仕えていきたいと願います。

1サムエル 2:1-11

「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」(2:10)

今日の箇所は、「ハンナの賛歌」と呼ばれる箇所です。

新約聖書の「マリヤの賛歌」のモデルです。

この箇所は子どもを願うハンナの祈りが答えられたという意味以上の意味があります。

ハンナの子、預言者サムエルの重要な役割は、イスラエルに王制をもたらすことでした。

サムエルは、初代のサウル王、二代目のダビデ王に油を注ぎます。

この「ハンナの賛歌」から分かることは、サムエルの誕生は、「民の祈りに対する神の答えだった」ということです。

民の祈りに応え、神は王を選ぶために、預言者サムエルを誕生させました。

そして、ダビデ王の子孫から、「主に油注がれた者」、メシア、キリストが誕生し、弱い者と強い者が逆転するという「ハンナの賛歌」は成就します。

1サムエル 1:19-28

「年が改まって、ハンナは身ごもって男の子を産んだ。そして「私がこの子を主にお願いしたのだから」と言って、その名をサムエルと呼んだ。」(1:20)

ハンナの人生を変えたのは「祈り」でした。

声が大きければ聞かれるという話ではありません。

ハンナの祈りは声になりませんでした。

しかし、一人の人が心を注ぎだして祈った祈りが、その人の人生だけでなく、歴史をも動かしたというのです。

ハンナは生まれた子どもに、

私がこの子を主にお願いしたのだから

と、「サムエル」という名を付けました。

「サムエル」の意味は「神聞きたもう」です。

榎本保郎先生はこんなことを言っています。

「神が全知全能であるとか、神の歴史支配などということはいわゆる神学論議から生まれてくるものではなく、祈りによる神との出会いから生まれてくるものである。(中略)大事なことは私たちが今、ハンナと同じ立場に立つと言うことである。」

ハンナのように祈らなければ分からない世界があります。

1サムエル 1:9-18

「彼女は、「はしためが、あなたのご好意を受けられますように」と言った。それから彼女は帰って食事をした。その顔は、もはや以前のようではなかった。」(1:18)

ハンナは祈りの人でした。

彼女は主の宮に行き、心を注ぎ出して、祈りました。

13節にこう記されています。

「ハンナは心で祈っていたので、唇だけが動いて、声は聞こえなかった。それでエリは彼女が酔っているのだと思った。」

酔っ払いと間違えられるほど、彼女は、祈りに専心していました。

祭司エリは、ハンナにこう告げます。

「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」(17節)

祈り通したハンナの顔は、以前のようではありませんでした。

メッセージ訳では、

「彼女の顔は光り輝いていた」(her face radiant.)

と訳しています。

祈りに導かれることはすべて良いことです。

今日は主の日。共に、主に心を注ぎ出して、礼拝を捧げましょう。

1サムエル 1:1-8

「エルカナには二人の妻がいた。一人の名はハンナといい、もう一人の名はペニンナといった。ペニンナには子がいたが、ハンナには子がいなかった。」(1:2)

「二人の妻がいた」とあるように、この話の根底に一夫多妻制度があります。

「それゆえ、男(単数)は父と母を離れ、その妻(単数)と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創世記2:24)

とあるように、神が創造された結婚はひとりとひとりです。

子を宿すかどうかも、神の御手の中にあり、私たちはそれを特別視してはいけないこともここで示されているのだと思います。

大事なことは、ハンナは自分の悲しみをこの後、祈りに変えたということです。

主の宮に行きたい、祈りに変えたことによって、ハンナの人生だけでなく、イスラエルの歴史を変えます。

マイナスは必ずプラスになります。

神は苦しみの中で祈るその祈りを用いられて御業を現されます。

ピリピ 4:14-23

「また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさにしたがって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」(4:19)

2コリント8章を見ると、ピリピの教会は貧しい教会だったようです。

しかし、パウロの宣教のため、他の教会が支援しなくても、真先に支援した教会でした。

そんなピリピの教会に与えられた約束が、

神が「あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

パウロはエペソの教会にもこう伝えました。

「主イエスご自身が『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを、覚えているべきだということを、私はあらゆることを通してあなたがたに示してきたのです。」(使徒20:35)

ここに教会が、どんなに資金的に厳しくても、宣教のために献金を捧げていく根拠があります。

神がすべての必要を満たされます。

ピリピ 4:8-13

「最後に、兄弟たち。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて評判の良いことに、また、何か徳とされることや称賛に値することがあれば、そのようなことに心を留めなさい。」(4:8)

私たちは聖書を信仰と生活の唯一の規範と信じています。

しかしそれは、世俗の世界から学ぶものは何もないという意味ではありません。

神はすべての人の神であり、神の指紋はこの世のあらゆるものについています。

「称賛に値すること」をパッション訳は、「すべての神の栄光ある働き」と訳しています。

医学も技術も芸術なども、神の御業であり、すべての良いものから学ぶ姿勢は大事です。

神学的には、これを一般啓示(自然啓示)と特別啓示と分類します。

神がすべてを造られたがゆえに、すべてのものは神を示します。

ただ、特別啓示である聖書だけが、神の啓示がなんであるかを明確に教えます。

ピリピ 4:1-7

「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(4:6)

教会は様々な人がいます。

異なった背景をもった人たちがいるから、互いの欠けを補い合うことができます。

しかし、それはまた、一致することの難しさを示します。

「ユウオディアに勧め、シンティケに勧めます。あなたがたは、主にあって同じ思いになってください。」(2節)

という内容は、明らかにピリピの教会に不和があったことを示しています。

「それぞれ、自分のことだけでなく、ほかの人のことも顧みなさい。キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。」(2:4,5)

キリストの思いを持つ方法は祈りです。ですから、パウロは言います。

「異なった方向に引き寄せられたり、物事を心配してはならない。・・・あなたの人生の全ての事柄を神に語ろう。」(TPT)

ピリピ 3:10-21

「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。」(3:20)

イエス・キリストを信じる者の国籍は天にあります。

天国民です。

それは、死後、天国に行けると言う話だけでなく、天の御国から主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望む民であるということです。

ピリピという都市はローマの衛星都市でした。

多くの退役軍人が住んでいたことでも有名です。

ローマから遠く離れたエーゲ海のほとりの都市に住んでいても、自分たちはローマ市民であることを民は意識していました。

同じように、私たちも神の御国の民であることを意識することが大切です。

私たちの王の王、主の主は、もうすぐこの地に来られるのですから。

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