使徒 27:13-26

「ですから、皆さん、元気を出しなさい。私は神を信じています。私に語られたことは、そのとおりになるのです。」(27:25)

クレタを出る前は、出航すれば命を失うという話でしたが、この時は、皆の命が助かるとパウロは言いました。

どうして、話が変わったのでしょうか。

この発言の変化の背後にあるのは、「とりなしの祈り」だとピーター・ワーグナー博士は言います。

とりなしの祈り」とは、他者のために、その人に代わって祈ることです。

パウロは自分の言うことを聞いていれば、こんな危害を被らなくてすんだことを知っていました。

それでも、パウロは百人隊長や船長をはじめとする二百七十六人全員のために祈っていたということです。

そしてそのとりなしの祈りは、私たちの想像以上に力あるものでした。

ワーグナー博士は、「歴史はとりなしの祈りをする者のものなのです」と言います。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 27:1-12

「しかし百人隊長は、パウロの言うことよりも、船長や船主のほうを信用した。また、この港は冬を過ごすのに適していなかったので、多数の者たちの意見により、ここから船出し、できれば、南西と北西に面しているクレタの港フェニクスに行き、そこで冬を過ごそうということになった。」(27:11,12)

百人隊長は、専門家の意見、そして、最終的に多数の者たちの意見に従いました。

それは当然の判断だったように思えます。

しかし、彼が無視したのは使徒パウロからの警告でした。

祈って、祈って、聖霊様に導かれて語られた言葉に耳を傾けなかったのです。

そしてその結果、パウロが語った通りに船は嵐に巻き込まれ、沈没してしまいます。

教会が重要事項を決定するとき、専門的知識よりも、多数の者たちの意見よりも、聖書的見地から導き出す姿勢が重要です。

大多数とは反対の言葉を神が語られたとき、それに備えることができる共同体であることができるようにお祈りください。

使徒 26:24-32

「しかし、パウロはこう答えた。「わずかな時間であろうと長い時間であろうと、私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」」(26:29)

パウロの伝道の原点には、「みな私のようになってくださることです」とあるように、キリスト者として生きることの幸いがあります。

パウロは、鎖につながれていました。

それでも、私のようになって欲しいと、キリスト者として生きることの素晴らしさがその発言から滲み出ています。

キリスト者として生きることは、パウロのように試練がなくなるわけではありません。

楽ができるとは言いません。

しかし、退屈することはない、充実した意義深い人生です。

キリストと顔と顔を合わせるその日まで走り続ける、信仰の冒険の人生です。

そして何よりも、助け主である聖霊様がいつも一緒です。

使徒 26:13-26:23

「こういうわけで、アグリッパ王よ、私は天からの幻に背かず、」(26:19)

パウロはダマスコ途上で、栄光に輝くイエス・キリストと出会いました。

その時、パウロは地に倒され、これまで拠り所にしていた思想、自我などが砕かれました。

人は、一度、徹底的に砕かれる必要があります。

新しく生まれなければ神の国を見ることはできないからです。

それからパウロは、「天からの幻」(ヘブンリービジョン)をいただいたと言います。

その幻は18節です。

「人々の目を開き、自分のほんとうの姿に気づかせ、罪を悔い改め、悪魔の暗闇から出て、神の光の中に生きるようにするために。わたしを信じる信仰によって、彼らは罪の赦しを受け、きよくされたすべての人たちと共に、神の相続財産を受けるようになる。」(LB)

パウロに与えられたこの「天からの幻」は、キリストを信じるすべてのキリスト者に与えられている幻です。

使徒 26:1-12

「実は私自身も、ナザレ人イエスの名に対して、徹底して反対すべきであると考えていました。」(26:9)

ヘロデ・アグリッパ2世に対してパウロは自分の人生のストーリーを証することによって弁明しました。

私たちはいつでの自分の人生のストーリーを証することができる準備をしておく必要があります。

私たちの人生のストーリーは、大きな神のストーリーの一部であることを忘れてはいけないと思います。

証をする時は、まず、キリストと出会う前の自分がどうであったかを語ります。

パウロの場合はこのように語っています。

「かつて私は、ナザレのイエスの弟子は撲滅すべきだと堅く信じていました。」

パウロはこの後、どのようにキリストに出会ったか、そして、キリストに出会って何が変わったかを語ります。

聖書は言います。

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」(1ペテロ3:15)

使徒 25:13-27

「ただ、彼と言い争っている点は、彼ら自身の宗教に関すること、また死んでしまったイエスという者のことで、そのイエスが生きているとパウロは主張しているのです。」(25:19)

ローマの総督、フェストゥスが理解したパウロの主張は、「イエスが生きている」ということでした。

フェストゥスはそのようにヘロデ・アグリッパ2世に伝えました。

ヘロデ・アグリッパ2世は、二七年ごろに生まれ、ローマで育ったと考えられていますので、イエス様と会ったことはありません。

しかし、ヘロデ一族がイエス様のことを知らないはずがありません。

曽祖父のヘロデ大王は、イエス様が誕生した時に、イエス様の存在を恐れて殺そうとしました。

しかし、「イエスが生きている」という主張を聞いても、ヘロデ・アグリッパ2世は恐れている印象は受けません。

彼は総督に、「私も、その男の話を聞いてみたいものです」(22節)と伝えています。信仰は聞くことから始まります。(ローマ10:17)

使徒 24:24-25:12

「数日後、フェリクスはユダヤ人である妻ドルシラとともにやって来て、パウロを呼び出し、キリスト・イエスに対する信仰について話を聞いた。しかし、パウロが正義と節制と来たるべきさばきについて論じたので、フェリクスは恐ろしくなり、「今は帰ってよい。折を見て、また呼ぶことにする」と言った。」(24:24,25)

パウロが語っていた「キリスト・イエスに対する信仰」についての話には、「正義と節制と来たるべきさばき」についての話が含まれていました。

福音は「信じれば天国に行ける」という話だけではなく、神との正しい関係、道徳的規律、やがて来る審判といった内容が含まれます。

イエス・キリストを信じているならば、神を無視した、自堕落な生活を続けることはできません。

人は一度死ぬことと、死後に裁きを受けることが定まっています。

健全な神への畏れを持つことも、「キリスト・イエスに対する信仰」に含まれています。

使徒 24:10-23

「ただ、私は閣下の前で、次のことは認めます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道にしたがって、私たちの先祖の神に仕えています。私は、律法にかなうことと、預言者たちの書に書かれていることを、すべて信じています。また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。」(24:14,15)

パウロの弁明には、明確なパウロの信仰告白を見ることができます。

パウロは聖書に書かれていることを「すべて信じています」と主張しました。

キリスト者とは聖書に書かれていることを信じる者です。

聖書に書かれている神を信じ、仕え、聖書に記されている通り、復活を信じます。

だからパウロは、

「神の前でも人の前でも、いつも良心に恥じない生活を精一杯心がけております。」(16節LB)

と言います。

今日は主の日。共に、主に礼拝を捧げましょう!

使徒 23:31-24:9

「実は、この男はまるで疫病のような人間で、世界中のユダヤ人の間に騒ぎを起こしている者であり、ナザレ人の一派の首謀者であります。」(24:5)

一世紀の日本は弥生時代で、どのような裁判制度があった不明ですが、地中海世界ではプロの弁護士(1節)が存在していました。

彼は言葉巧みにパウロを告発します。

パウロが告発された理由は、「疫病のような人間」とあるようにパウロの影響力です。

また、当時、キリスト教はナザレ派と言われていました。

イエス様がナザレの出身だったからです。

ナザレのイエスの福音が、疫病のように広がり、世界中を騒がせてると揶揄したのです。

もっとも、福音の広がりと、疫病の感染力が比較されるほど、福音の力は強いものです。

今も、世界中で福音は広げられ、出生率よりも、キリスト者になる人の方が多いと言われます。

私たちもパウロのように、自信と確信をもって福音を伝えていくことができますように。

使徒 23:12-30

「ところが、パウロの姉妹の息子がこの待ち伏せのことを耳にしたので、兵営に来て中に入り、そのことをパウロに知らせた。」(23:16)

この時、陰謀を企てたユダヤ人たちは、熱狂的な愛国主義者だったシカリ派の人たちのことだったと考えられています。

極端な思想を持つ人は、いつの時代も自分の考える正義感で自らを正当化し、暴力に訴えます。

しかし、神の守りは人の謀略を超えています。

神はパウロの姉妹の息子を用いて、この陰謀を千人隊長に知らせ、千人隊長はパウロをカイサリアに移送します。

パウロに家族がどのぐらいいたのかは、聖書に出て来ないので分かりません。

しかし、この箇所から、少なくともパウロの姉妹の家族がエルサレムにいたことが分かります。

また、パウロに知らせていたところを見ると、良い関係があったことも分かります。

神は必要な助けを備えてくださるお方です。