ガラテヤ 6章

「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(8節)

「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。」(7節口語訳)というのは、聖書が教えるこの世界の法則の一つです。リンゴの種を蒔けばリンゴを刈り取ります。リンゴの種を蒔いてぶどうを刈り取ることはありません。ですから、何を蒔くかはとても重要です。メッセージという訳では八節をこのように訳しています。「自己中心(他者の必要を無視する‐神を無視している!)を植える人は、雑草の実を収穫する。彼の人生のために彼が現さなければならないのは、すべて雑草である!しかし神に応答する中で植える者は、神の霊に彼の内に働いてもらうならば、本物のいのち、永遠のいのちの実を収穫する。」日々の生活の中で、自問することは良いことだとおもいます。ただ自分の欲望を満たすために生きているのか、それとも、神様の導きを求めているのか。

ガラテヤ 5章

「もし互いにかみ合ったり、食い合ったりしているなら、お互いの間で滅ぼされてしまいます。気をつけなさい。」(15節)

LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「しかし、互いに愛し合わず、いつもいがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」

使徒パウロは、ここでは教会の文脈で話しています。教会員はお互いに助け合うために存在しているのに、いがみ合ったりしたら、共倒れしてしまうから、気をつけなさいと言います。これは、また、夫婦関係や家族関係にも適用することができると思います。夫婦も家族も、互いに助け合うために存在しているのに、もし、非難し合ってばかりいたら、共倒れしてしまいます。共通して言えることは、戦う相手を間違えないということです。私たちが戦う相手は、伴侶や家族ではなく、サタンや悪魔と言った暗闇の力です。

ガラテヤ 4章

「あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」(17節)

 LBでは今日の箇所をこう訳しています。

「一生懸命あなたがたに取り入っている偽教師たちは、ほんとうに、あなたがたのためを思っているのではありません。ただ、もっと自分たちの取り巻きをふやすために、私たちから人々を引き離そうとしているだけです。」

残念ながら、使徒パウロの時代から、未信者に伝道するのではなく、自分たちの取り巻きを増やすために、信者を伝道する人たちがいます。ここで注目すべきは、その人たちは「熱心」なのですが、正しいものではないということです。私たちは熱心さに心を動かされやすいものですが、その動機が何であるか、冷静に判断することが求められています。未信者ではなく、信者を伝道する人たちは偽教師です。福音は知らない人に伝えるものです。

ガラテヤ 3章

「あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。」(26節)

 今日の箇所は次のように訳すことができます。

「キリスト・イエスの中にある信仰を通して、みんな神の子です。」

つまり、イエス・キリストとの個人的な関係の中にある人は皆、「神の子ども」だと言うのです。自分は「神の子ども」であることを認識することは、力あるクリスチャン生活を送る上で、本当に大切なことです。なぜならば、この世の評価は猫の目のように変化するからです。自分が「神の子」であることを見失ってしまうなら、私たちはあらゆる評価の中で自分を見失ってしまいます。私たちが「神の子」であると認識できる場所は、イエス・キリストとの関係の中にあります。ですから、私たちは様々なことを成功したり失敗したりしても、揺るがされることはありません。私たちの功績が神様に認められるのではなく、キリストの十字架の御業が認められるからです。

ガラテヤ 2章

「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(20節)

 キリストとともに十字架につけられるという体験は、私たちの人生観を変えます。自分中心の人生から、キリストを中心とした人生へ転換するということだからです。しかし、そのような境地に、修行を積んだら到達することができるというものではありません。あくまでも、聖霊なる神様の助けによって、イエス様との個人的な関係を築いていく中で、そのように変えられていきます。もちろん、生きている限り、自我との戦いは続きます。時には、イエス様を押しのけてしまうこともあると思います。しかし、聖霊なる神様は私たちを変えてくださいます。

「助け主、聖霊なる神様、あなたを歓迎します。」

ガラテヤ 1章

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。」(8節)

使徒パウロが伝えた福音とは、まさに、人となられた神の御子、イエス・キリストが私たちの罪のために十字架にかかり、死に、三日目によみがえられたということです。そして、このイエス・キリストを自分の救い主、人生の主として信じる者は救われるというものです。パウロは、そのことに反するようなことを言う人はのろわれるべきだとまで言いました。パウロがそこまで福音のメッセージを死守しようとした理由は、クリスマスのメッセージにあります。

「キリスト様は神様なのに、神様としての権利を要求したり、それに執着したりはなさいませんでした。かえって、その偉大な力と栄光を捨てて、奴隷の姿をとり、人間と同じになられました。」(ピリピ2:6,7LB)

すべては、私たちを愛するがゆえ…。

エステル 10章

 「それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」(3節)  

 

モルデカイが尊敬された理由が二つありました。一つは同胞の幸福を求めたこと。もう一つは「平和」を語ったこと。「平和」は聖書のキーワードの一つで、原語は「シャローム」。「平和、平安」という意味と同時に、「満たし、健康、健全、完全、祝福など」の意味があります。使徒ペテロはこう言います。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和(シャローム)を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(Ⅰペテロ3:10-:12)

今日は何よりも、「平和(シャローム)の君」として来られたイエス様を覚えたいと思います。

メリー・クリスマス!

エステル 9章

「この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(1節)

神の民を滅ぼそうと企んだ者が、逆に滅ぼされたという内容です。神の民を滅ぼそうとしている本当の敵とは、暗闇の力、悪魔のことです。この暗闇の力があまりにも強大なので、時に私たちは滅ぼされそうに感じてしまいます。しかし、最終的に滅ぼされるのは悪魔の方だと聖書は言います。イエス・キリストの誕生を、ヨハネはこのように表現しています。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

今、たとえやみの中にいるように感じても、キリストを心の中に歓迎するならば、必ず、希望の光は灯ります。キリストを信じる者は、ひとりも滅びることなく永遠のいのちを得ると聖書は約束します。圧倒的な勝利者となります。

「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ロマ8:37)

※ 本日はクリスマス特別礼拝。第三礼拝は休み。
17時より港南台高島屋前でキャロリング。

エステル 7章

「こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。」(10節)

 この話は、ただ、悪者ハマンがやっつけられて、めでたしめでたしという類の話なのでしょうか。新約聖書の光から考えると、敵でさえ愛するように命じられたイエス様の話と矛盾する感じもします。新約聖書的には、エペソ書6章にあるように私たちの本当の敵は、血肉をもった人間ではなく暗闇の支配者である悪魔です。では、何を神様はここから私たちに語っているのでしょうか?注目すべきポイントは、ハマンは、モルデカイのために柱を用意していて、しかもそれに自分がかけられたほど、準備は完全に整っていたということです。将棋で言うところの次の一手で詰む状況です。ところが大逆転が起きました。私たちも、モルデカイのように、99パーセント詰められたような状況においても、希望を捨てるべきではありません。神様は大逆転の神様だからです。

エステル 5章

「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」(8節)

エステルが、どうしてすぐに言わずにじらしたか私たちには分かりません。しかし、私たちが知っているのは、そのおかげで、王はモルデカイのことをもう一度心にとめる機会が与えられたこと、そして事がスムーズに進んだということです。これは、「神の時」があるということです。今、うまくいかない理由は、必ずしも行なっている内容が問題だとは限りません。単に、その時ではないという場合も考えられます。何でも挑戦することは大切なことですが、静まって、神の時を待ち望むことも大切なことです。

「主よ、あなたの時を教えてください。」