イザヤ 14章

「あなたは心の中で言った。
『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合
の山に座ろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』」(13‐14節)

 この箇所は一般的にサタン(悪魔)について言及している箇所だと考えられて
います。創世記の最初、エバを誘惑してきた悪魔がどのようにして存在するよう
になったのかを解き明かすカギがこの箇所に記されています。悪魔はいつの時代
も、この誘惑を私たちの心に忍ばせてきます。権力に対する欲求は昔も今も変わ
りません。しかし、イエス様は、弟子たちの内にある権力への欲を見抜いてこう
言われました。
『あなた方の間でえらくなりたいと思う者は、皆に仕えるものに
なりなさい。』
そして自らそれを実行されました。私たちもイエス様にならう者
となりたいと思います。

イザヤ 12章

「あなたがたは喜びながら 救いの泉から水を汲む。」(3節)

 この箇所は、私たちにとってとても馴染みがあるところです。なぜらな、この節のヘブライ語が「マイム・マイム」という、かつて日本の学校で頻繁に踊られていた踊りの原型だからです。マイムとは『水』のこと、そして新約の時代には七日間にわたって行われた仮庵の祭りの最終日に祭司がギホンの泉から水を汲み、神殿前にある祭壇に注ぎました。それは降雨を切望するユダヤ人にとって切実な雨乞いの祈りの儀式でした。ヨハネの福音書には、その祭りの最終日にイエス様が大声で人々に語った言葉が記されています。

『だれでも渇いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』

イエス様こそ、わたしたちの救いといのちの源泉です。

イザヤ 11章

「この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもってよるべのない者をさばき、公正を持って国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。」(3-4節)

 この節での『この方』とはその前後の文脈から見てイエス・キリストを指していることは明らかです。そして、今日示されている箇所は、まさにイエス様がその三年半の公生涯の中で人々に示されたものでした。イエス様は父なる神との時をなによりも喜ばれ、外見や人のうわさで人を裁くことはありませんでした。どんな人にも公正な態度を持ち、一見信仰深そうに見える律法主義に対しては厳しい態度で臨まれました。私たちはイエス様と正反対な態度に陥らないように注意していきたいと思います。

イザヤ 10章

「それは、彼がこう言ったからである。『私は自分の手の力でやった。私の知恵
でやった。私が、国々の民の境を除き、彼らのたくわえを奪い、全能者のよう
に、住民をおとしめた。』」(13節)

 イザヤ書10章は、当時最強のアッシリア帝国に対する預言の言葉が記されて
います。ですから、13節の『彼』とはアッシリアを表わしています。イザヤ書
は、ちょうど北イスラエル王国がアッシリアに滅ぼされた時代に書かれました。
イザヤが活動していた南ユダ王国もまた、このころアッシリアの脅威にさらされ
ていました。アッシリアの傲慢な姿をこの箇所からでも容易に想像することがで
きます。しかし、この僅か100年後にアッシリア帝国は完全に滅ぼされてしま
うのです。首都ニネベが破壊され、炎に包まれたことが考古学の発見からも確認
されています。どんな強国も栄枯盛衰していくように、全能者ではありません。
まことの神のみが、全能者です。

イザヤ 8章

「人々があなたがたに、『霊媒や、さえずり、ささやく口寄せに尋ねよ。』と言うとき、民は自分の神に尋ねなければならない。生きている者のために、死人に伺いを立てなければならないのか。」(19節)

 霊媒や口寄せといったたぐいのものは、世界中に存在していますが私たちの住む日本において特に人々の関心が高いように感じます。神様がこれらを忌み嫌う理由は、生ける神ではなく、死人に伺いをたてようとする姿勢です。『民は、自分の神に尋ねなければならない』と記されていますが、私たちは問題の渦中で、誰に尋ねているでしょうか?祈りに導かれているでしょうか?聖書は言います。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15,16)

イザヤ 7章

「ところが、『エフライムにアラムがとどまった。』という報告がダビデの家に
告げられた。すると、王の心も民の心も、林の木々が風で揺らぐように動揺し
た。」(2節)

 この当時、すでにイスラエルは北と南に分裂していました(北イスラエルと南
ユダ)。そして南ユダ王国に対して、アラム(シリア)と北イスラエルが攻めの
ぼるのですが、南ユダの首都であったエルサレムは陥落しなかったということが
ここでの内容です。つまり、南ユダがこの戦いに勝利をした、ということです。
にもかかわらず南ユダ王国(ダビデの家)の王も民もアラムと北イスラエルが同
盟を結んだといううわさを聞いただけで激しく動揺しました。こういうことは私
たちの人生にもよくおこります。敵を過大評価しすぎてしまうと恐れや不安で
いっぱいになってしまいます。問題を大きくしすぎないように、神の偉大さに目
を向けることができますように。

イザヤ 6章

 「私は、『だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。』と言っておられる主の声を聞いたので、言った。『ここに、私がおります。私を遣わしてください。」(8節)

 聖書のみことば、特に今日の箇所は今から約2500年前、神様がイザヤに語られ、記録されたものです。しかし、永遠である神様の御言葉は、今の時もなお私たちに直接語りかけています。だからこそ、この一つの御言葉に応答したたくさんの人々がこの御言葉をしっかりと握り、福音を携えて様々な場所に遣わされて行きました。私たちの祈りは

「ここに、私がおります。」

から始まります。神様はあまねく全地を見渡して、神様のために生きていく人を探しています。神様への応答は、若すぎることも、年をとりすぎていることもありません。過去がどうであれ、自分の能力がどうであれ、神様の求めに応じる準備ができているかどうかが問われます。

イザヤ 4章

「主は、シオンの山のすべての場所とその会合の上に、昼は雲、夜は煙と燃える火の輝きを創造される。それはすべての栄光の上に、おおいとなり、仮庵となり、昼は暑さを避ける陰となり、あらしと雨を防ぐ避け所と隠れ家になるからだ。」(5、6節)

 この箇所が預言していることは、最終的には、この世の終わりに成就することです。しかし、今、その前味をキリスト教会に見ることができます。この預言が、「会合の上に」(新共同訳では「集会」)と言われていることは注目に値すると思います。信仰生活はキリストとの個人的な関係が大切ですが、教会という集まる所に表される神様の栄光、臨在というものがあります。ですから聖書は警告します。

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

イザヤ 3章

「まことに、見よ、万軍の主、主は、エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる。」(1節)

 私たちは、とにかくいろいろなものに頼ろうとします。そして、意識的であっても、無意識であっても自分がよりかかっていたその何かが取り去られて始めて私たちは我に返り、祈りに導かれるということがあると思います。聖歌の236番に、こういう歌詞があります。

「イエスこそ岩なれ、堅固なる岩なれ、他は砂地なり。」

使徒パウロこそ、まさにそのことを体験した人です。パウロは、このように表現しています。

「・・・自分の無力さを痛いほど思い知らされました。しかし、それがよかったのです。というのは、そんな状態の中で、何もかも神様にお任せしたからです。救い出すことができるのは、神様だけです。」(Ⅱコリント1:9LB)

「イエスさま、あなただけを頼りとすることができますように。」

イザヤ 2章

「その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。」(17節)

 新約聖書の中で使徒ペテロはこのようなことを言っています。

「神様は、謙遜な者を特別、祝福してくださいますが、高慢な者には容赦なさいませんから。もしあなたがたが、神様の力強い手の下で慎み深くしているなら、ちょうどよい時に、神様は高く引き上げてくださるでしょう。」(Ⅰペテロ5:5,:6LB)

人間の問題の一つは、高慢になって、自分があたかも神のように状況を支配できるかのように誤解することだと思います。そして、自分ではどうすることもできないような状況に直面し、へりくだらされ、自分はただの人間であることを知らされます。私たちは、謙遜に、自分が有限な人間であることを認め、神を認め、祈りの人生を歩むことが大切です。今日は主の日、王の王、主の主なる神を認め、礼拝を捧げましょう!