エレミヤ 16章

「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」と。」(20節)

 LBではこう訳しています。

「神を作ることが人間にできるでしょうか。人間の作る神々は本物の神ではありません。」

人間が作る神々は、聖書的には神ではありません。聖書に出てくる神の名は「YHWH」で、それは英語の「BE動詞」にあたり、存在を意味します。つまり、自立自存の神という意味があります。ですから、何か原因があって存在したものは、聖書の定義では神とは呼べないのです。人間が作り出したものは、神とは呼べません。しかし、いつの時代も人間は神々を作ろうとします。自分に都合のよい神々を作り出そうとするのです。しかし、聖書ははっきりと、

「そんなものは神ではない」

と言います。

私たちは、自分の理想の神々を考え出すのではなく、神の言葉である聖書からまことの神を学ぶ必要があります。

エレミヤ 14章

「異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」(22節)

メッセージという訳では、最後の部分をこう訳しています。

「あなたはそのすべてを造られた。そのすべてをなされた。」

聖書の神は、天地万物を造られた神です。ここに希望があります。LBではこう訳しています。

「どこの国の神が、私たちのために雨を降らせるでしょう。私たちの神様以外に、このようなことのできる神はいません。ですから私たちは、神様が助けてくださるのを待っているのです。」

天地万物を造られただけではなく、私たちを助けてくださる神様だと預言者は言います。私たちに関心をもち、私たちの祈りに耳を傾けられるお方だというのです。ですから、私たちは祈りつつ、主を待つ姿勢が求められます。

エレミヤ 13章

  「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。」(15節)

メッセージという訳ではこう訳しています。

「聞きなさい。注意深く聞きなさい。あなたのやり方に固執してはいけない。ここでは、神のメッセージを取り扱っているのだから。」

自分の考え、自分のやり方に固執しすぎますと、神のみことばを聞くことができなくなってしまいます。自分の哲学が神のみこころを理解しようとする思いを邪魔するのです。そもそも自分の考え、自分のやり方の方が、神の考えよりも優れていると考えること自体、思い上がっているということを示すのだと思います。私たちは、聖書を信仰と生活の規範とするという福音主義を大事にしています。神がお語りになられたことを、素直に聞くことを大事にしています。神のみことばである聖書のみことばに耳をふさぐならば、そこには、「視界ゼロの暗闇」(LB)が待っています。神のみ言葉だけが私たちの足の灯火、私たちの道の光だからです。

※ 本日のSSCの第二礼拝はリラの特別賛美と塚田献先生のメッセージ。第三礼拝はお休みです。

本日午後、リラの二〇周年記念コンサートが東京で開催されます。

エレミヤ 12章

「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」(1節)

神に質問することは、悪いことではありません。生きている限り、疑問を持つことがないほうが不自然です。エレミヤは、

「神様が正しいのは分かっていますが、二,三のことを話させてください」

と言います。これは、不信仰ということではなく、信じるがゆえの質問であり、神はこれを受け止めてくださいます。これもまた、神に向き合うことであり、祈りの一つです。しかし、分からないことのゆえに、分かっていることを手放してはいけません。エレミヤは、理解できないことがありましたが、だからといって、神のほうが正しいということは手放しませんでした。私たちは神ではありません。すべてを理解することはできません。

エレミヤ 11章

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から導き出した日に、彼らをはっきり戒め、また今日まで、『わたしの声を聞け。』と言って、しきりに戒めてきた。」(7節)

神様はイスラエルの民に、エジプトから救い出してから今に至るまで、朝に夜に、警告し続けたと言います。

「わたしの声を聞け。」

と。問題は、彼らは従わないどころか、神様の存在すら注意を払うこともありませんでした。自分がしたいことを、自分がしたい時にしていました。その結果、イスラエル(南ユダ王国)の民はバビロン捕囚されていきます。
イエス・キリストを信じることは、出エジプトを体験することでもあります。私たちは暗闇の支配から救い出されました。そして、神様はイスラエルの民と同じように私たちに、

「わたしの声を聞け。」

と言われています。神様を無視せずに、神のみことばである聖書に耳を傾けようではないでしょうか。

エレミヤ 10章

「主はこう仰せられる。「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。」(2節)

 古くからバビロニアで占星術がよく行われていたことは歴史的に認識されています。ですからLBではこう訳しています。

『天宮図を作って、星占いで、自分の運命や将来を読もうとする者のまねをしてはいけない。』

聖書は明確に占いを禁じています。占いの危険性は、その占いに人生が縛られてしまうということがまず挙げられます。占いは、結局、その人を支配します。もちろん、悪霊の問題もあるのですが、それ以上に神様を求めるということを妨げます。神様のみこころを求めて、祈り、聖書を読むという神様との親しい関係を築くことを妨げます。神様の計画は、はっきりしています。神様は言われます。

「それは災いではなく祝福を与える計画で、ばら色の将来と希望を約束する。」(エレミヤ29:11LB)

エレミヤ 9章

「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ。―」(24節)

岩波訳では、前の節と合わせて短い箴言風の断片としてこの箇所を紹介しています。

「誇らないように、知恵ある者は自分の知恵を。誇らないように、強い者は自分の強さを。誇らないように、富む者は自分の富を。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。まことに、わたしこそヤハウェ、地に、恵みと公正と正義を行なう者。まことに、これらのことをわたしは喜ぶ。‐ヤハウェの御告げ‐。」

いつの時代でも人間は、自分の「知恵」「強さ」「富」を誇る傾向があります。マクスウェルはこう言います。

「『優越感・うぬぼれ』は成長を止める。『自分を賢いと思い込む人は、馬鹿者より望みがない』」

使徒パウロはこのように言っています。

「『誇りたい者は、主のなさったことを誇れ。自分を誇るな』と旧約聖書にあるとおりです。」(Ⅱコリント一〇・一七LB)

エレミヤ8章

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(11節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「彼らは、実際には平安などどこにもないのに、すべてがうまくいくと保証する。こうして、わたしの国民のひどい傷に、効き目のない薬を塗っている。」

私たちの時代の問題の一つは、まさに、手軽ないやし、効き目のない薬を塗っているということだと思います。一人一人が神様に心を注いで祈り求めることよりも、手軽なレシピを提供しようとします。聖書を開いて神のみことばを待ち望むよりも、手軽な助言を与えようとしてしまいます。本当のいやし、効き目のある薬は、イエス・キリストとの直接的な関係から流れてきます。

「イエス様、あなたが必要です。あなたの本当のいやしを与えてください。」

エレミヤ 7章

「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」(4節)

神様は

「偽りのことばを信頼してはならない」

と言います。当時のエルサレムの人々は神殿がエルサレムにあるから大丈夫と思っていました。しかし、それは偽りのことばを信頼していると言います。どんなにエルサレムに神殿があっても、神を神として、神のみことばに聞く姿勢がなければ滅びると言います。聖書における神殿とは、天と地が交わる場所です。それはつまり、天の領域を、この地にもたらせるという意味があります。それで、次節以下にこう続きます。
「次の条件を満たした時にだけ、ここにいることができる。悪い思いと行いを捨て、人には公平であり、みなしご、やもめ、それに外国人を食い物にしないこと。人殺しをやめること。今のように、偶像を拝んで自分を傷つけるような、ばかなまねはしないこと。」(5,6節LB)

エレミヤ 6章

「エルサレムよ。戒めを受けよ。さもないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを住む人もない荒れ果てた地とする。」(8節)

LBではこう訳しています。

「エルサレムよ、これが最後の警告だ。わたしの言うことを聞かないと、この町にだれも住まないようにする。」

神様のことばに耳を傾けないということは致命的です。神は恵み深いお方ですが、義なる神であり、恐れられるべきお方です。私たちはそれほどの意識をもって神のみことばである聖書に向かう必要があります。実際、神様の言うことを聞かなかったエルサレムは、バビロン帝国に滅ぼされてしまいます。しかし、すべてを失った後にも、神のあわれみは尽きませんでした。エレミヤはエルサレムが陥落した後に、このように歌っています。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)今日は主の日。聖なる恐れをもって主を礼拝しましょう。
> 感謝礼拝

 今日は一年に一度の感謝礼拝の日です。アメリカのサンクス・ギビング・デイは、テーブルを囲んで感謝なことを言う習慣があります。いざ、感謝なことを言うように言われると、なかなか出てこないということはないでしょうか。▼妻の晶子さんの所属しているリラの新しいCD「めぐみのしずく」(いのちのことば社)が今月発売されました。アルバムに収録されている最後の曲、「主に感謝せよ」に関して、作詞者の塚田先生がこんなコメントを寄せています。▼昨年、父が48年の牧会の働きを引退し、母と新しい歩みに踏み出しました。その最後の月に教会に掲げられていたみことばが、詩篇136:1でした。『主に感謝せよ』というみことばを、喜びも困難もたくさんあったその歩みをしめくくるものとして選んだことに、思いを馳せました。どんな人生の歩みになろうとも、『主に感謝しよう』という生涯をまっとうできますように。▼来週の第二礼拝は、リラのメンバーの方々が来られ、特別賛美をしていただく予定です。第二のメッセージは、塚田先生にしていただく予定です。神様のめぐみを感謝します。