「それゆえ、神である主はこう仰せられると言え。『わたしは、あのことわざをやめさせる。それで、彼らはイスラエルでは、もうくり返してそれを言わなくなる。かえって、その日は近づき、すべての幻は実現する。』と彼らに告げよ。」(23節)
エゼキエルはエルサレムの陥落を預言しました。しかしなかなか起こらないので、人々はその日は延期されて、無くなったと、笑いものにしました。それで神は、その預言が成就する日が来たと告げました。ペテロの時代にも似たような状況がありました。
「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(Ⅱペテロ3:4,9新共同訳)
主の日は必ず来ます。その日を意識しつつ歩めますように。
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エゼキエル 11章
「それゆえ言え。『神である主はこう仰せられる。わたしは彼らを遠く異邦の民の中へ移し、国々の中に散らした。しかし、わたしは彼らが行ったその国々で、しばらくの間、彼らの聖所となっていた。』」(16節)
前章で、エルサレムの神殿から主の栄光が離れ去ったことが記されています。神殿は、天と地が重なる場所、神と会う場所です。しかし、エルサレムの神殿はその機能を失っていました。皮肉にも神はエルサレムの神殿ではなく、散らされた国々で、神を求める人たちに神はご自身を現され、神殿の真意を示されました。今、神殿がエルサレムにないことには、意味があります。イエス・キリストが真の聖所となられたからです。イエス・キリストの中で天と地は重なり、イエス・キリストの中で人は神と出会います。
「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。」(20節)
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I calculate everything as a loss, because knowing King Jesus as my Lord is worth far more than everything else put together! (Phil.3:8KNT)
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エゼキエル 10章
「主の栄光がケルブの上から上り、神殿の敷居に向かうと、神殿は雲で満たされ、また、庭は主の栄光の輝きで満たされた。」(4節)
神の神殿にとって一番の悲劇は、神の栄光が離れさることでした。これは申命記31章に預言されていたことでもありました。
「彼らが滅ぼし尽くされ、多くのわざわいと苦難が彼らに降りかかると、その日、この民は、『これらのわざわいが私たちに降りかかるのは、私たちのうちに、私たちの神がおられないからではないか。』と言うであろう。」(17節)
神の栄光が離れ去る原因を申命記では次のように記しています。
「あれほど禁じたのに外国の神々を拝む者には、わたしもきっぱり背を向けるだけだ。」(18節LB)
教会が教会であるために、主の栄光、主の臨在は不可欠です。私たちはイエス・キリストだけがあがめられるように守る責任があります。いつも、主の栄光、主の臨在が、主の教会に満ちていますように。
エゼキエル 9章
「主は彼にこう仰せられた。『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行なわれているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』」(4節)
神様は、裁きを下される前に、エルサレムで行われるすべての罪悪のために泣き悲しむ者の額にしるしをつけられたと言います。これはまた、当時流行していた価値観ではなく、変わらない聖書の価値観に生きる人を指しているとも言えます。時代や文化の変化と共に、移ろいやすい価値観、道徳があります。しかし、聖書の価値観、道徳は、時代を超えて、何千年間も変わらずに、文化を超えて揺るがずに存在しています。そして、その時代の流行の価値観に流されない人々に、確実に祝福を最終的にもたらしています。しるしを付けられた人たちは守られました。どんな時も、聖書を自分の信仰と生活の唯一の規範として選択できますように。
エゼキエル 8章
「この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは、イスラエルの家の長老たちがおのおの、暗い所、その石像の部屋で行なっていることを見たか。彼らは、『主は私たちを見ておられない。主はこの国を見捨てられた。』と言っている。」(12節)
当時のイスラエルの指導者たちは、「主は私たちを見ておられない」と、人々を偶像礼拝へと導いていました。しかし神はエゼキエルに、神がしっかり見ておられることを示しました。私たちの神は、見ておられる神です。17節を見ますと、神の心が引き裂かれていることを感じます。
「見たか。こんなひどい罪を犯して、国全体を偶像礼拝に導き、わたしを鼻であしらって・・・」(LB)
神が見捨てたわけではありません。人々が、神を見捨てて、偶像礼拝に落ちていってしまったのです。問題の中で、私たちはどこに助けを求めているでしょうか。神は、私たちが他の何かではなく、神ご自身を求めることを待っておられます。
エゼキエル 7章
「わたしがあなたの行ないに仕返しをし、あなたのうちの忌みきらうべきわざをあらわにするとき、あなたがたは、わたしがあなたがたを打っている主であることを知ろう。」(9節)
聖書の中で神様の名前は、色々な表現で出てきます。創世記22章では、「アドナイ・イルエ」(14節)「備え主」。
エレミヤ23章では、「主は私たちの正義」。
さらに士師記においては、「アドナイ・シャローム」(6:24)「平和の主」。
今日のエゼキエル書の箇所では、「あなたがたを打つ主」として記されています。「あなたがたを打つ主」というのは、あまり嬉しくない表現です。しかし、正義の神は罪を打たないわけにはいきません。ですから、イエス・キリストが私たちの身代わりとなって、あの十字架で打たれました。
「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」(イザヤ53:5)
今日は主の日。イエス様の十字架の御業を覚えていきたいと思います。
エゼキエル 6章
「彼らは、わたしが主であること、また、わたしがゆえもなくこのわざわいを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう。」(10節)
新共同訳ではこう訳しています。
「そして彼らは、わたしが主であり、理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる。」
私たちの人生に、理由もなく問題が起こることはないと聖書は言います。私たちには理解できないことが多々ありますが、私たちの人生に起こる一つ一つの出来事に、意味があると聖書は言います。ヨセフは、彼を奴隷として売った兄たちに、こんなことを言います。
「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」(創世記50:20)
私たちの人生に理由もなく、また、神様の許可なく何も起こらないということを受け止められますように。
エゼキエル 5章
「わたしが彼らに対する憤りを全うするとき、彼らは、主であるわたしが熱心に語ったことを知ろう。」(13節)
神様は私たちに熱心に語られているお方です。問題や試練にぶつからないと、なかなか私たちは気がつかない傾向がありますが、神様は確かに私たちに熱心に語られています。試練の中で真剣に祈りつつ、聖書を読む中で、聖書のことばが生き生きと私たちの心に突き刺す時、私たちは確かに熱心に神様が語られていることに気がつきます。だからといって、試練の時でなければ神様は熱心に語られていないというわけではありません。祈りつつ、聖書に向き合っているならば、神様が日々、熱心に語られていることに気がつくはずです。
「神様、あなたは今生きておられ、今、熱心に私たちに語られている神であることを感謝します。私たちの心の耳を開き、聞くことができますように。」
エゼキエル 4章
「それから、あなたは顔を、包囲されているエルサレムのほうにしっかりと向け、腕をまくり、これに向かって預言せよ。」(7節)
LBでは、最初の部分をこのように訳しています。
「とにかく、エルサレムの包囲の様子を実演して見せるのだ。」
エゼキエルの預言の特徴は、視覚に訴えるものでした。映像を言語化することが難しいように、そのためにエゼキエル書は難解です。プロテスタント教会は、神のメッセージを視覚化することに否定的でした。そのため、カトッリク教会で発展した美術なども、否定的に受け止められてきました。しかし、今日の箇所を素直に受け止めるならば、神のメッセージを伝えるために、視覚に訴えるもの、絵画や映像(映画や劇他)などのメディヤも積極的に活用していくことが聖書的だと言えます。もっとも、私たちは十字架という映像を預言的に掲げています。イエス・キリストの十字架のメッセージを見せています。
エゼキエル 3章
「その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」(4節)
教会の説教壇というのは、神のみことばのとおりに語られるために存在しています。いわゆる「いい話」ではなく、現代に生きる私たちにとって言えば、「聖書の語っている通りに語る」ということです。それは単に文字通りというよりも、著者が意図したとおりに語るということです。聖書の解釈の仕方もいろいろあると言う方がいらっしゃいます。しかし、聖書の本当の著者である聖霊なる神が何を意図して語っているか、聖書を聖書に解釈させるならば、奇抜な解釈さえしなければ、いろいろ解釈することはできません。祈りつつ、しっかり学び、神が意図したように語ることが求められているということを心に留めることは大事なことだと思います。
「主よ、あなたが意図したとおりに聴けますように。」
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