申命記 24章

「思い起こしなさい。あなたがエジプトで奴隷であったことを。そしてあなたの神、主が、そこからあなたを贖い出されたことを。だから、私はあなたにこのことをせよと命じる。」(18節)

神様がイスラエルの人々に他者を顧みるように命じられた理由は、彼らがただ神様の恵みによって、エジプトの苦役から救い出されたからです。自分の苦しめられた経験を忘れてはいけないということです。痛みを知っているのだから、その痛みを重くしないようにやさしくすることが大切であるということです。そのことをよく理解していた使徒パウロは言いました。

「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。」(Ⅱコリント1:4)

私たちは、神様の恵みによって苦難を乗り越えることができたことを忘れずに、励ましあうことが大切です。

申命記 23章

「しかし、あなたの神、主はバラムに耳を貸そうとはせず、かえってあなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。」(5節)

神様はのろいを祝福に変えてくださる神様です。ですから、イエス・キリストを信じる者は、のろいを心配する必要はありません。ヨセフの人生もいい例です。彼は言いました。

「あなたがたはわたしに対して悪をたくらんだが、神はそれを良きに変らせて、今日のように多くの民の命を救おうと計らわれました。」(創世記50:20口語訳)

神様は悪を良きに変えられるお方です。ですから、私たちは恐れる必要はありません。神様は言われます。

「どのような武器があなたに対して作られても、何一つ役に立つことはない。裁きの座であなたに対立するすべての舌を、あなたは罪に定めることができる。これが主の僕らの嗣業、わたしの与える恵みの業だ、と主は言われる。」(イザヤ54:17新共同訳)

今日は主の日。主に共に礼拝を捧げましょう。

申命記 22章

「あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。」(1節)

私たちは面倒なことに関わりあいたくないという思いが強いと思います。しかし、聖書は「知らぬふりをしていてはならない」と言います。「正直者は馬鹿を見る」と言われますが、聖書はこう言います。

「正しい行いをすることに疲れ果ててしまわないようにしましょう。失望せず、あきらめずにいれば、やがて祝福を刈り取る日が来るからです。」(ガラテヤ6:9LB)

また、聖書はこうも言っています。

「おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。」(ピリピ2:4口語訳)

作家のマーク・トゥエインは、

「自分を励ます最良の方法は、ほかの人を励ますことだ」

と述べていますが、聖書が教える法則は、だれかを助けることは自分をも助けるということです。

申命記 21章

「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」(23節)

イエス・キリストが、どうして十字架にかけられて死ななければならなかったか、その理由がここにあります。ガラテヤ書では、こう解説しています。

「本来なら、私たちが自分の悪い行いゆえに受けなければならないのろいを、キリスト様は、自分の身に引き受けてくださったのです。そして、滅びる以外にない状態から、私たちを救い出してくださいました。なぜなら、聖書に、〔イエスが木の十字架にかけられたように〕『木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である』と書いてあるからです。」(3:13LB)

イエス・キリストを信じる者は、イエス・キリストが私たちの身代わりにのろいを引き受けてくださいましたから、祝福されています。イエス・キリストの十字架の意味を無意味にしないように、この真理をしっかりと握り締める必要があります。

申命記 20章

「あなたがたが戦いに臨む場合は、祭司は進み出て民に告げ、彼らに言いなさい。『聞け。イスラエルよ。あなたがたは、きょう、敵と戦おうとしている。弱気になってはならない。恐れてはならない。うろたえてはならない。彼らのことでおじけてはならない。共に行って、あなたがたのために、あなたがたの敵と戦い、勝利を得させてくださるのは、あなたがたの神、主である。』」(2‐4節)

祭司の役割は、人々に生ける神が彼ら共におられて、勝利を与えて下さるということを告げることでした。私たちも同じように互いに信仰のことばを告げることが大事だと思います。日々の生活の中で私たちは様々な戦いがあります。だからこそ、主が共におられることを聞く必要があります。主が勝利を与えて下さることを聞く必要があります。聖書は言います。

「ただ相手に益となり、助けとなること、また、祝福を与えることだけを話なさい。」(エペソ4:29LB)

申命記 19章

「どんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。」(15節)

私たちはどんなことでも、一人の人の意見で判断してはいけないと聖書は言います。たとえその人が、「みんなそう言っている」と言ったとしても、私たちは一人の人の意見で決断をしてはいけないと注意されています。箴言にもこういう箇所があります。

「最初に訴える者は、その相手が来て彼を調べるまでは、正しく見える。」

LBではこう訳しています。

「だれの話でも、他の人が裏を明かし、全貌がわかるまでは、もっともらしく思えます。」(18:17)

ですから、私たちはひとりの証人によって結論を出さないように気をつける必要があります。

申命記 18章

「ただし、わたしが告げよと命じていないことを、不遜にもわたしの名によって告げたり、あるいは、ほかの神々の名によって告げたりする預言者があるなら、その預言者は死ななければならない。」(20節)

神に対する聖なる恐れをもつ必要があります。

私たちは軽々しく

「主はこう言われる」

と言うべきではありません。預言者と呼ばれた人でも、神が命じていないことを神が命じたと言うならば、それは死に値すると言います。22節をみると、預言者は一〇〇パーセント当たらなければ死罪にあたります。九〇%でもいけないと。ですから、もし、主が語られていると感じたら、

「主がこうおっしゃっているように感じるのですが、吟味してください」

と言うべきです。聖書のみことばに矛盾したことを、神は語られることはありません。私たちは聖書をしっかりと読み、学ぶ必要があります。聖書を通して神は今も語られるからです。

申命記 17章

「自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。」(19節)

当時イスラエルの国に王はいませんでした。しかし、周囲の国々にならって王を立てるようになることを、神はご存知で、14節以下に王の資格を与えています。王は主の選ぶ者でなければなりませんでした。馬を増やさない、つまり、神以外のものに依存するような人ではいけませんでした。多くの妻や、財産を増やしてはいけませんでした。ソロモン王はこのすべてを破りました。さらにもう一つ、王の資格がありました。それは、聖書を自分の手もとにおき、一生の間、読み続けることでした。ソロモン王が晩年に記した伝道者の書はこのようにまとめられています。

「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて。」

聖書を手離さなければ主に立ち帰ることができます。

申命記 16章

「あなたの神、主のために七週の祭りを行ない、あなたの神、主が賜わる祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。」(10節)

「七週の祭り」とは、ペンテコステの祭り(五旬節)のことです。この日、聖霊なる神が臨み、初代教会が誕生しました。進んでささげるささげ物を自発的に捧げる祭りの時に聖霊なる神が臨まれたということは興味深いことだと思います。神は私たちに受動的な信仰姿勢ではなく、能動的な信仰姿勢をもつようにチャレンジされているのだと思います。私たちが積極的に進んで主を求めて祈りをささげて行く時に、主が臨んでくださるという世界があるということだと思います。ペンテコステの日、百二十名ほどの人たちが集まって、祈っていました。(使徒1:15参照)進んで主に礼拝を捧げる人たちが百二十名ほど教会に集まるならば、この日本にもリバイバルが起こるのではないでしょうか?今日は主の日。共に主に捧げましょう。

申命記 15章

「その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。」(2節)

七年ごとにゆるしの年が規定されています。どんなにお金を貸していても、七年毎のゆるしの年にはそれを全部ゆるさなければならないと言います。その理由は、「主が免除を布告しておられる」からだと言います。私たちは受けた恩は忘れやすい所がありますが、他人に対する施し、貸しなどはなかなか忘れないところがあると思います。人から受けたひどい仕打ちなどは、貸しとして仕返しをたくらむようなところがあります。イエス・キリストは、私たちのために十字架にかかられ、赦しを布告されました。キリストはゆるしの年を宣言しています。キリストは十字架の上から私たちに語ります。

「わたしはあなたのために死んだ。わたしに免じて、あなたを傷つけた人を赦してくれないか。」