使徒1章

「そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが、ペテロはその中に立ってこう言った。」(15節)

聖霊が臨んで初代教会が誕生する直前、百二十名ほどの人が一緒に集まって祈っていました。教会はそこからはじまりました。私たちの教会では、この箇所から百二十名礼拝を祈り求めています。百二十名ほどの人たちが礼拝に集まり、共に祈り、賛美し、礼拝を捧げていく中で、神様が必ず素晴らしいことをなされると信じます。集まることに意味があることは次のイエス様の言葉からも明らかです。

「まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:19,20)

申命記 34章

「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(7節)

モーセは彼の使命であった約束の地の手前まで人々を導くまで、目も気力も衰えませんでした。LBではこう訳しています。

「モーセは百二十歳の高齢で死んだのに、まだ視力は完全で、体力も若者のようでした。」

神様は私たちに使命を与えるだけでなく、その力も与えてくださいます。逆に言うのならば、私たちが神の目的に生きているならば、力にあふれて生きることができるということです。聖書は言います。

「神様を待ち望む者は、新しい力がみなぎり、わしのように翼を張って舞い上がります。いくら走っても疲れず、どんなに歩いても息切れしません。」(イザヤ40:31LB)

自分が何をしたいかではなく、神の使命に生きることが、充実した人生をもたらします。

申命記 33章

「太陽がもたらす賜物、月が生み出す賜物、」(14節)

「太陽がもたらす賜物」というのは分かる気がしますが、「月が生み出す賜物」、暗闇の中で生み出される恵みというのは見落としやすい傾向があると思います。創世記の一章には、

「こうして夕があり、朝があった。」(5節)

とあり、聖書の一日は、日没からであることが分かります。私たちは日没が一日のはじまりという感じがしないと思います。しかし聖書的には、人生における月の夜が、神の奇跡の一日のはじまりなのです。暗闇の月の夜に多くの尊い賜物が私たちに生み出されるのです。詩篇にこういう箇所があります。

「結局、神様から懲らしめられたことは、この上ない幸いだったのです。おかげで、はっきり目をおきてに向けることができました。」(119:71LB)

申命記 31章

「主ご自身があなたの先に進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。」(8節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「神様が味方だから、恐れてはならない。神様はいつも先頭に立ち、途中で見放すことも、見捨てることもなさらないのだ。」

この素晴らしい約束は旧約聖書だけではありません。新約聖書のヘブル人への手紙にもはっきりとこう記されています。

「主ご自身がこう言われるのです。『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。』」(13:5)

使徒パウロは言いました。

「あなたがたの内面に良い働きを始めた神様は、引き続き、必ずそれを恵みのうちに成長させ、やがてキリスト・イエスが帰って来られる日に、ついに完成してくださると、私は堅く信じています。」(ピリピ1:6LB)

神様は私たちを途中で見放すことなく完成してくださいます。

申命記 30章

※ 本日は母の日。すべてのお母さんに感謝します。SSCの第三礼拝はお休みです。

「まことに、みことばは、あなたのごく身近にあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行なうことができる。」(14節)

ある教会では、メッセージの前にいつも聖書を持って、こう宣言しています。「これは私の聖書です。聖書が言う私が私です。聖書がもっているというものを私は持っています。聖書ができるということを私はできます。今日、私は聖書に教えられます。私は大胆に告白します。私の頭は注意を払います。私の心は受け入れます。私は決して同じではありません。イエス様のみ名によって。」私たちも、聖書を開くときに、このような聖書信仰の姿勢を持つことができればと思います。「あなたはこれを行うことができる」と聖書が言うのですから、自分の経験や誰かの意見よりも、神のみことばを信じるべきではないでしょうか。
今日は主の日です。共に主のみことばを受けとめていきたいと思います。

>母の日

今日は母の日。
近所のコンビニでもカーネーションが売られています。そんな母の日の始まりが教会であったことを御存知でしょうか。1907年、ウエストバージニア教会でアンナ・ジャービスという方が二年前に亡くなった自身の母を思い、「生きている間にお母さんに感謝の気持ちを伝える機会を設けるべきだ」と、母の日を働き掛けたことが始まりとされています。日本では明治時代からキリスト教会、教会学校を通して少しずつ浸透していきました。カーネーションを贈る習慣は、アンナの母親が白いカーネーションが好きだった、ということに由来しているそうです。そう考えるとカーネーションにこだわる必要はないかもしれません(私はバラが好き)。お母さんの好きな花を、お母さんの好きだった花を飾って感謝の思いを表す。そんな一日も素敵だと思います。こうやって書きながら、私自身が実家の母にまだ何も贈っていないことを思い出しました、、。これから電話をして、『おかあさん、いつも本当にありがとう。』と伝えます。(小山晶子牧師夫人)

申命記 29章

「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現わされたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行なうためである。」(29節)

神はすべてのことをお示しになっているわけではないと言います。隠されていることがある、神だけがご存知のことがあると言います。聖書に明言されていないグレーゾーンがあるのは事実です。それで、教会が民主化すると混乱します。神のみこころは、人の思いを超えた所にあるからです。議論を積み重ねるのではなく、祈りを積み重ねなければ、衰退します。しかし、はっきり示されていることがあります。聖書に明言されていることがあります。私たちは明言されていることに関しては聴従することが求められています。イエス・キリストを信じるならば救われる、永遠のいのちがあるというのは、明言されています。私たちは、神の国の福音に生きていく責任があります。

申命記 28章

「あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。」(2節)

28章は祝福とのろいの箇所です。祝福の道も、のろいの道も、私たちが選び取るものだと聖書は言います。呪いに関して聖書は次のように記しています。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。」(ガラテヤ3:13)

榎本師はこう言います。

「イエス・キリストの十字架はのろいからの救いであるということである。のろいから救われたからといって、それで祝福の世に生きているということにはならない。(中略)神がキリストにより私たちに豊かな祝福を得ることができるようにしてくださったがゆえに、私たちはみ言葉への聴従に徹するべきなのである。」

祝福の道は、聖書のみことばに生きる(聴従)姿勢を選ぶことにあります。

申命記 27章

「またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、主の前で喜びなさい。」(7節)

神に捧げるのですが、捧げた肉を神の御前で食べ、喜ぶことが、「和解のいけにえ」です。私たちは神に賛美を捧げるのですが、その賛美の中で神の臨在を体験し、喜び、楽しみます。捧げることを通して、主の臨在にある喜びを体験するのです。神に捧げなければ、それを食べることはありません。そして、その時を喜ぶことさえできません。ですから、私たちはまず、時間を神に捧げる必要があります。心から賛美の声を上げる必要があります。そして、神を礼拝する時間を過ごすことを通して、神の臨在を喜び楽しむことができます。

「神様を喜ぶことこそ、あなたがたの力なのだ。」(ネヘミヤ8:10)

神を喜び楽しむ中で、今日を生きる力を体験することができます。

申命記 26章

「あなたは、あなたの神、主の前で、次のように唱えなさい。「私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。」(5節)

イスラエルの人々は、何か特別な存在だったわけではありませんでした。彼らの父祖は「さすらいのアラム人」でした。彼らはヨセフを通してエジプトに下り、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。彼らはエジプト人に虐げられ、神に助けを叫び求めました。神は彼らを省みられました。

「そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。」(8,9節)

この箇所を通して聖書は、私たちが自分の人生を振り返り、神に感謝と礼拝を捧げることの大切さを語っています。

申命記 25章

「あなたは完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生きるためである。」(15節)

私たちがこの地で幸せな生活を過ごすためには公正が必要です。ごまかし合っていれば、結局のところ、社会全体が崩壊していきます。誰も見ていなくても、神は見ておられるということを意識して、誠実に、公正に生きることを神は私たちに望まれています。しかし、「完全に正しい」ものがこの世に存在するのでしょうか?聖書は「あなたは正しすぎてはならない。」(伝道者7:16)とも言います。生真面目になりすぎて、あそびの部分がなくなることも聖書は問題視していることを私たちは心に留める必要があると思います。「完全」と訳された言葉は「シャローム」と同じ語根で、「平和、全体、調和」という意味が含まれます。「完全に正しい」とは、主観的に正しすぎることとは違います。