士師記 6章

「・・・このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。主の使いが彼に現われて言った。『勇士よ。主があなたといっしょにおられる。』」(11,12節)

ミデヤン人の目を避けて、酒ぶねの中でこっそりと麦を打っていた小心なギデオンの前に主の使いが現れて言いました。

「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」

ギデオンは自分が勇士だと思っていなかったことは明らかです。実際彼は、自分がどんなに価値のない小さな存在かを告げます。服部師は、

「神の召命に応える者にとって、それがどのような事情の下であったとしても、神が共にいてくださるという神の約束こそが、どのような物質的な保証や約束よりも尊いのであり、力強い支えなのである。」

と言います。聖書は言います。

「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。」(Ⅱテモテ1:7新共同訳)

士師記 5章

「主の使いは言った。『メロズをのろえ、その住民を激しくのろえ。彼らは主の手助けに来ず、勇士として主の手助けに来なかったからだ。』」(23節)

メロズは地名ですが、その明確な位置は分かっていません。しかし、彼らは協力できたはずなのに、協力しなかったがゆえに主の使いに責められます。聖書は「何もしない」ということを警告しています。聖書が教える黄金律は

「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」(マタイ7:12)

私たちは「自分にして欲しくないことを他の人にもしないように」と、「迷惑をかけない」、「しない」ということを教育されます。しかし、聖書は「自分にして欲しいことを他の人にもするように」と、することを勧めます。

「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です。」(ヤコブ4:17新共同訳)

教会がもっとも必要としている協力は祈りです。祈りが教会を建て上げます。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

士師記 4章

「そのころ、ラピドテの妻で女預言者デボラがイスラエルをさばいていた。彼女はエフライムの山地のラマとベテルとの間にあるデボラのなつめやしの木の下にいつもすわっていたので、イスラエル人は彼女のところに上って来て、さばきを受けた。」(4,5節)

神様が用いられた士師の一人は、女性でした。男性優位という当時の社会において、神様があえて女性を用いられたことには意味があると思います。神様は男性も用いられますし、同じように女性も用いられます。聖書にはっきりと書いてあります。

「神にはえこひいきなどはないからです。」(ローマ2:11)

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:18)

神様は今も、世界中いたるところを見渡して、性別に関係なく、御自分と心を一つにする人を探しています。

士師記 3章

「イスラエル人が主に叫び求めたとき、主はイスラエル人のために、彼らを救うひとりの救助者、カレブの弟ケナズの子オテニエルを起こされた。」(9節)

士師記には一つのサイクルがあります。まず「背信」。

「イスラエル人は、主の目の前に悪を行ない、彼らの神、主を忘れ」(7節)。

その結果、彼らは蒔いた種を刈り取り、他国の支配に屈します。何年間かの苦しみの後、人々は神に叫び求めます。神は彼らの叫びを聞かれ、士師と呼ばれる人々を起こされ、彼らを救います。(この箇所ではオテニエル)

「しかし、さばきつかさ(士師)が死ぬと、彼らはいつも逆戻りして、先祖たちよりも、いっそう堕落して、ほかの神々に従い、それに仕え、それを拝んだ。彼らはその行ないや、頑迷な生き方を捨てなかった。」(2:19)

このサイクルが繰り返されます。このサイクルから解放される方法が聖霊です。

「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ8:2)

士師記 2章

「その同世代の者もみな、その先祖のもとに集められたが、彼らのあとに、主を知らず、また、主がイスラエルのためにされたわざも知らないほかの世代が起こった。」(10節)

出エジプトという神の偉大な救い、解放を知らない世代が起こったと言います。知らないと言っても、親やいろいろな人から、知識としては話を聞いていたと思います。ですから問題は、彼らはそれらの話を単なる昔話、彼らとは直接関係がない物語としてしか聞いていなかったということだと思われます。N・T・ライト師はこう言います。

「『聖書の権威』に生きるとは、その物語の語っている世界に生きることを意味する。その中に、共同体としても、個人としても、自分たちを浸すことである。」

「聖書は、私たちの目の前にある務めを把握させ、その務めに私たちを取りかからせ、それを達成させるためにある。」

主を知らない世代とならないように、聖書をしっかり学ぶことができますように。

※ 本日のSSCは、婦人会後の13時半よりキリスト教書店(オアシス横浜)の移動販売があります。

士師記 1章

「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」(19節)

榎本師はこの文章の意味をこう説明しています。

「主がユダと共におられたので、ユダはついに山地を手に入れたが、平地に住んでいた民は鉄の戦車をもっていたので、彼らはそれに恐れおののき、ついに神により頼むことをしなかったので、彼らはこれを追い出すことができなかった。」

つまり、彼らは自分の力で何とかできる敵に対しては神によりたのんで進んでいったのですが、自分たちの手には負えない敵に対しては、神によりたのんで前進するということをしなかったので、勝利を得ることができなかったというのです。私たちは何とかなりそうな問題は神様に信頼できるのですが、どうしようもないように思える問題は、神様にも不可能と思ってしまうところがないでしょうか?

ローマ 16章

「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。」(3-5節)

プリスカとアクラは、とても興味深い夫婦です。彼らは新約聖書の六箇所で言及されています。彼らはローマとエペソに、家を持っていました。彼らは天幕づくりの仕事をしていて、パウロは彼らと一緒に仕事をしたと言います。彼らはまた、アポロがまだ駆け出しの頃、助けました。彼らはどこにいても、パウロの働きを支え続けました。教会はいつの時代も、彼らのような神によって立てられた、誠実な信徒たちによって支えられてきました。

「主よ、誠実にミニストリーを支え続けてくださっている、すべての信徒の方々に、祝福がありますように。」

ローマ 15章

「昔書かれたものは、すべて私たちを教えるために書かれたのです。それは、聖書の与える忍耐と励ましによって、希望を持たせるためなのです。どうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。」(4,5節)

使徒パウロは、旧約聖書の目的の一つは、私たちに「聖書の与える忍耐と励まし」によって希望を持たせるためだと言います。私たちは旧約聖書を学ぶ時、神様がどれほど忍耐深いお方かを学びます。何度も裏切り続けるイスラエルの民を、神は愛し続け、関わり続けられます。ですから、詩人もこう歌っています。

「主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる。」(詩篇86:15共)

もちろん、今もイスラエルの民を神は見捨てられていません。神の忍耐は私たちに慰めと励ましを与えます。そして、希望をもたらしてくださいます。

ローマ 14章

「あなたはいったいだれなので、他人のしもべをさばくのですか。しもべが立つのも倒れるのも、その主人の心次第です。このしもべは立つのです。なぜなら、主には、彼を立たせることができるからです。」(14節)

私たちは皆、個人的な確信やこだわりがあります。こうすべきだとか、ああすべきでないというものがあります。たとえば、ある人は菜食主義で、ある人は何でも食べます。個人的な確信やこだわりが問題なのではなく、それを他者にも押し付け、裁きあうならば問題となります。聖書は「この人は、ああすべきだ。」「この人はこうすべきではない。」と互いに裁き合ってはいけないと言います。なぜならば、私たちの主人は生ける神、キリストであり、裁く権利は私たちではなく、キリストにあるからです。「さばいていいのは魚だけ」と言われます。ビリー・グラハム先生はこう言います。

「罪を示すのは聖霊の仕事。裁くのは神の仕事。私の仕事は愛すること。」

今日は主の日。主に礼拝を捧げましょう。

※ 本日のSSCの第二礼拝はギデオン・サンデー。ギデオン聖書協会の方が来られます。

ローマ 13章

「「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」(9,10節)

聖書の言う愛は、「欲望」という自己中心の愛とは違います。相手の必要を認めて与えていく、満たしていくのが、聖書の言う愛です。ですから隣人に対して害を与えるようなものは、聖書の言う愛ではありません。何でもしてあげることが愛とは限りません。相手のことを思い、行動することが愛であり、これが旧約聖書が実は求めていたことでした。スティーブン・カーティス・チャップマンは、このように歌っています。

「愛はいつも善をもって悪に打ち勝つ。」(Love will always overcome evil with good.)