士師記 16章

「彼女が、『サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。』と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、『今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。』と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」(20節)

聖書学者の鍋谷師はこう言っています。

「淫乱と好色のうちに異国の女と戯れるサムソンは、祈りのうちに神と交わることを忘れ、また、ナジル人として召されていることの自覚も失っていた」。

サムソンは本来ならばユダヤ人の歴史の中で英雄になれる可能性をもった人でした。しかし、彼は神を忘れ、快楽を優先してしまったために、せっかくの人生を無駄にしてしまいました。残念ながら、今も同じことが起こっています。せっかく神から与えられている可能性を、一時的な快楽のために無駄にしてしまっている人たちがいます。サムソンのように取り返しがつかなくなる前に、神のもとに立ち返ることができますように。

士師記 15章

「そのとき、彼はひどく渇きを覚え、主に呼び求めて言った。『あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。』すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえその名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。」(18,19節)

旧約聖書学者の服部師はこう言っています。

「サムソンは、(性格的に弱点をもちながらも)自分なりに、士師としての使命を果たすために精いっぱい努力したのだろう。彼は、疲れ、のどの渇きを覚えて主に求めたのである。(中略)そのような疲れたサムソンに対して、神は彼に水を与えて、元気を回復させ、強められたのである。」

「エン・ハコレ」の意味は「祈る者の泉」(新共同訳)。

主を呼び求める者に、主は答えてくださいます。

士師記 14章

「サムソンはティムナに下って行ったとき、ペリシテ人の娘でティムナにいるひとりの女を見た。」(1節)

サムソンはイスラエルの人々を苦しめていたペリシテ人の女性に恋してしまい、結果的に大きな問題にまきこまれてしまいます。そもそも、サムソンがティムナに行かなければ、問題は起こることはありませんでした。神の子どもとして、私たちも行くべきでない場所というものがあります。そのような場所に足を踏み入れなければ、多くの問題を避けることができます。行くべきでないところに足を踏み入れていくならば、何が起きてもおかしくありません。特に、私たちは主の祝宴に招かれていることを心に留める必要があると思います。

「『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』」(マタイ22:8,9)

と言われないように、主に礼拝を捧げるために集まりましょう。

士師記 13章

「その後、この女は男の子を産み、その名をサムソンと呼んだ。その子は大きくなり、主は彼を祝福された。そして、主の霊は、ツォルアとエシュタオルとの間のマハネ・ダンで彼を揺り動かし始めた。」(24,25節)

13章から有名なサムソンの話です。13章では特に、彼の特異な誕生の話が記されています。サムソンというと怪力というイメージがあるので、ゴリアテのような巨人を想像します。しかし、そのような記述は聖書にはないので、たぶん、一般的な人だったのだと思われます。それでは、彼の力の秘訣はどこにあったのでしょうか。聖書は言います。

「神の霊は、彼を奮起させるべく働きかけ始めたのです。」(LB)

聖霊なる神様がサムソンの人生に働きかけなければ、このようなことは考えられなかったと思われます。今、サムソンの人生に働き掛けられた神の霊は、イエス・キリストを信じ、聖霊を求めるすべての人の人生に、同じように働きかけてくださいます。

士師記 12章

「エフライム人が集まって、ツァフォンへ進んだとき、彼らはエフタに言った。『なぜ、あなたは、あなたとともに行くように私たちに呼びかけずに、進んで行ってアモン人と戦ったのか。私たちはあなたの家をあなたもろとも火で焼き払う。』」(1節)

アモン人の圧迫を受け、愚かな誓願を立ててまで戦い、勝利を手にしたエフタに、その犠牲も考慮せずにエフライム人たちは苦情を言い、責め、脅迫しました。エフライムはイスラエルの中心的な部族であり、リーダーという自負があったからです。エフタは答えました。

「あなたがたには召集をかけましたよ。しかし、駆けつけてはくれなかったじゃないですか。助けて欲しかった時に助けてくれなかったのですよ。」(2,3節LB)

助けて欲しい時に助けもせずに文句だけ言うのは間違っています。

「互いに愛し合わず、いつもいがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラテヤ5:15LB)

今日は主の日です。共に主に礼拝を捧げましょう。

士師記 11章

「エフタは主に誓願を立てて言った。『もしあなたが確かにアモン人を私の手に与えてくださるなら、私がアモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。私はその者を全焼のいけにえとしてささげます。』」(30,31節)

エフタのこの愚かな誓願は、聖書の中でこれに類するような記述がないので問題になります。もっともレビ記27章を見ると、「千五百円」(5節LB)を代わりに支払えば良かったはずですが、聖書を学ばなかったのか、その知識がなかったことは明らかです。いずれにせよ、イエス様は言われました。

「ただ『はい、そうします』とか、『いいえ、そうしません』とだけ言いなさい。それで十分です。誓いを立てることで約束を信じてもらおうとするのは、悪いことです。」(マタイ5:37LB)

祈る時に軽率に誓う必要はありません。ただイエス様の御名によって祈ればよいのです。

士師記 10章

「行け。そして、あなたがたが選んだ神々に叫べ。あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい。」(14節)

チャック・スミス師は、この箇所に関してこんなコメントをしています。

「人々は、どんな神に仕えていても、すべての道は天国に通じると言います。しかしそれは間違っています。問題や助けが必要な時に、それは本当に大きな違いがあります。」

聖書にこういう箇所もあります。

「神様は私たちの隠れ家、また力、そして苦難にあえぐ時の確実な助けです。」(詩46:1LB)

父、子、聖霊の三位一体なる聖書の神は今生きて働かれている神です。私たちの祈り、叫びを聞いて御業をなしてくださる神です。苦難の時の確実な助けです。主から『しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。』(13節)と言われないように、日々主だけに、仕えていけますように。

士師記 9章

「今、あなたがたはまことと真心をもって行動して、アビメレクを王にしたのか。あなたがたはエルバアルとその家族とを、ねんごろに取り扱い、彼のてがらに報いたのか。」(16節)

この箇所から私たちが学ぶことが出来ることの一つは、誰を自分たちの指導者に選ぶかという選ぶ側の責任です。3節を見ると、そもそも「身内の者」ということで人々はアビメレクを支持したことが記されています。つまり、公正さよりも関係を重視しました。そして、それが悲劇を生みました。どういう人物か知らないのに、知り合いの紹介だから、身内だからと支持してしまい、その結果もたらされてきた悲劇は、歴史も証明しています。アビメレクの場合、野望の問題がありました。聖書は言います。

「聖書に約束されているように、神様は、謙そんな者には力をお与えになりますが、高慢な者は敵視なさるのです。」(ヤコブ4:6LB)

士師記 8章

「そのとき、イスラエル人はギデオンに言った。『あなたも、あなたのご子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。あなたが私たちをミデヤン人の手から救ったのですから。』しかしギデオンは彼らに言った。『私はあなたがたを治めません。また、私の息子もあなたがたを治めません。主があなたがたを治められます。』」(22,23節)

イスラエルの人々はギデオンをイスラエルの国の王としようとしました。そして、世襲制度的な指導体制まで進言しました。しかし、ギデオンは言いました。

「私は王になる気はない。息子も同じだ。神様こそあなたがたの王だ。」(LB)

私たちはすぐ誰か人間に導きを求めてしまう傾向があります。しかし、ギデオンは、自分に依存するのではなく神に依存するように言いました。今年の年間聖句は、

「すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:4)

主に聴従していくことができますように。

士師記 7章

「そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」(2節)

ミデヤン人は13万5千人(8:10)、イスラエル人は4分の1以下の3万2千人。すでに人数的には不利な状況のはずでした。しかし、神様はそれでも多すぎると言われました。なぜなら、私たちがすぐに自分の力で勝ったつもりになって、傲慢な態度をとるからだというのです。神様はあえて、神様が介入してくださらなければどうしようもない状況に追い込まれることを許されます。私たちがただ膝を屈めて祈るしかない状況に追い込まれることを許可されるのです。そうするならば、すべての栄光は神様に帰されるからです。

「主よ、あなたが必要です。私たちの状況にご介入して下さい。栄光は主のものです。」