1コリント 1章

しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(23,24二三、二四節)

英国人のライト教授が、米国の学会に出張中、英国対豪州のラグビー・ワールド・カップの決勝が開催されました。米国人はラグビーに興味がないため、テレビ中継はありません。それで、英国が優勝したことを英国にいる娘から電話で聞きました。その喜びを分かち合いたくてホテルのロビーに行きましたが、そこには何も知らない米国人しかいません。それで、早めに学会の会場に行き、ワールド・カップのことを知ってる人を待ちました。最初に来た人は豪州人でした。豪州人にとってはつまずき、米国人にとっては愚かでしょうが、信じる英国人にとっては…。

福音はこのように信じる人に働きます。

今日は主の日です。

※ 本日の第三礼拝(18時から)はお休みです。

 

ルツ記 4章

「こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。」(13節)

誠実なボアズは、正当な手続きを経てルツをめとることにします。それは、ボアズよりも権利のある親類が

「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」(6節)

と言ったように、彼の財産を失う危険を伴うものでした。ボアズはまさにすべてを捨ててでも、ルツを贖ったのです。イエス様は言われました。

「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)

ボアズにとっては、ルツは宝のようなものであり、彼は彼女のためにすべてを捧げました。ボアズはキリストの象徴であり、ルツはキリストの花嫁である教会の象徴だと言われます。キリストは私たちを贖うためにその命を捧げてくださいました。

※明日のSSCの第三礼拝(18時から)はお休みです。

ルツ記 3章

「彼は言った。『あなたはだれか。』彼女は答えた。『私はあなたのはしためルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。あなたは買い戻しの権利のある親類ですから。』」(9節)

ルツは義母のナオミの言うとおりにすべてを行いました。ナオミはボアズが彼女に「すべきことを教えてくれる」と言いました。しかし、ルツはボアズに対して自分の意志で、自分から『妻にして欲しい』(「あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください」の意味)と頼みました。ルツはナオミに利用された被害者ではありません。彼女自身が望んだのです。神のご計画の中に生きるということは、それは盲目的に従うこととは違います。盲人のバルテマイにイエス様が

「わたしに何をしてほしいのか。」(マルコ10:51)

と言われたように、神様は私たちに「何をして欲しいのか」と尋ねてくださるお方です。

※ 本日のSSCの祈祷会はお休みです。

ルツ記 2章

「モアブの女ルツはナオミに言った。『どうぞ、畑に行かせてください。私に親切にしてくださる方のあとについて落ち穂を拾い集めたいのです。』すると、ナオミは彼女に、『娘よ。行っておいで。』と言った。」(2節)

スポルジョンの「朝ごとに夕ごとに」にこの箇所についてこんなコメントが書いてあります。

「力を落として悩むクリスチャンよ。来て、今日、広大な神の約束の畑で落ち穂を拾え。そこにはあなたの願いを満たすたくさんの約束がある。(中略)落ち穂はあなたの目の前に置かれている。それを拾い集めよ。恐れるな。ただ信ぜよ。これらのすばらしい約束をつかみ、黙想によってもみがらを取り去り、喜びをもってそれを食べよ。」

ルツの信仰は受動的ではなく能動的でした。ルツは落ち込んで、ナオミと一緒にあわれみをただ待っていたわけではありませんでした。私たちも聖書を開いて、能動的に、みことばを食べていく必要があります。

ルツ記 1章

「そこで、彼女は嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ろうとした。モアブの野でナオミは、主がご自分の民を顧みて彼らにパンを下さったと聞いたからである。」(6節)

ナオミとその家族は約束の地、ベツレヘムに住んでいましたが、ききんがあったので異教の神々の地、モアブに移り住んでしまいました。問題と言うのは、そもそも私たちが膝を屈めて、神様に祈り求めるためにあります。しかし、ナオミたちは、神様に祈り求めることよりも、手っ取り早い解決を求めて、約束の地を離れてしまいました。その結果、彼女はすべてを失ってしまいました。すべてを失ったナオミは、主を待ち望む者に必要を満たされる神の現実を耳にします。

「すべての目は、あなたを待ち望んでいます。あなたは時にかなって、彼らに食物を与えられます。」(詩篇145:15)

驚くことは、神様のもとに戻ってきたナオミに、神様は回復を始められたということです。

士師記 21章

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(25節)

イスラエルの人たちは、互いに自分の目に正しいことを行った結果、内戦となり、仲間同士傷つけ合うこととなりました。ベニヤミン族を打ち破ったイスラエルの人は、勝利に酔いしれるどころか、泣き悲しみました。

「イスラエルの神、主よ。なぜイスラエルにこのようなことが起こって、きょう、イスラエルから一つの部族が欠けるようになったのですか。」(3節)

夫婦でも家族でも教会でも、仲間同士の争いは、結局、悲しみしか残りません。たとえ夫が妻を言い負かせても、喜びはありません。なぜ、このようなことが起こったか、それは、彼らが神のみこころを求めることをせずに、自分たちの目に正しいと見えることを行ったからです。この後、長老たちは拉致を推奨する愚かな決断をします。教会も、それぞれ自分の目に正しいと見えることをするなら危険です。聖書を学ぶことは大切です。

士師記 20章

「イスラエル人は立ち上がって、ベテルに上り、神に伺って言った。『私たちのため、だれが最初に上って行って、ベニヤミン族と戦うのでしょうか。』すると、主は仰せられた。『ユダが最初だ。』」(18節)

イスラエルの人々は相談した結果、ベニヤミン族と戦うことにしました。内戦です。彼らは神にどの部族がまず最初に戦いに出て行くべきかを伺いました。しかし、そもそも戦いに上るべきかどうかを尋ねるべきでした。チャック・スミス師は言います。

「もし、彼らが正しい伺いを神にしていたら、この後に記されているような敗北を体験することはなかったと私は信じています。」

私たちも「神様、これをすべきですか?それともこれですか?」と、二、三の提案をしてその中から答えて下さるよう要求することがあると思います。しかし私たちはまず、「神様、私はあなたが私にして欲しいことをします。何をするべきですか?」と祈り求めるべきです。

士師記 19章

「それを見た者はみな言った。『イスラエル人がエジプトの地から上って来た日から今日まで、こんなことは起こったこともなければ、見たこともない。このことをよく考えて、相談をし、意見を述べよ。』」(30節)

士師記に希望の光を見いだすことができない理由は、人々が神に聴く姿勢がないからです。めいめいが自分の目に正しいと見えることを行うために、悲劇から悲劇が繰り返されていくのです。考えたり、相談したりすることは決して悪いことではありませんが、神に祈り、みこころを求めなければ混乱を招くだけです。この後、イスラエルの人々が相談して決めたことは報復であり、いわゆる内戦でした。そして問題は解決されるどころか泥沼化します。神は言われます。

「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:9)

今日は主の日。話し合うためではなく祈るため、神のみこころを求めて集まり、礼拝を捧げましょう。

士師記 18章

「そのころ、イスラエルには王がなかった。」(1節)

士師記には何度も

「イスラエルには王がなかった。」

という言葉が出てきます。確かに士師記はイスラエルが王制へと移行するまでのことが記録されているという面があります。しかし、ある聖書学者は

「士師記は、救い主を王として認めぬ者らの実体を描写した書物である」

と言います。榎本師(ちいろば先生)はこう言っています。

「私たちは救い主を助言者として迎えているかもしれない。あるいは教師、顧問として迎えているかもしれない。しかし、王としては迎えていないのではなかろうか。それがどんな言葉であろうと自分にとって都合が悪ければ聴かない、そういう自由をいつも確保しながら、私たちは主に対しているのではなかろうか。王は決して助言者や顧問ではない。絶対者である。その言葉にはどんな言い訳もゆるさない。ただそれに従うだけである。」

士師記 17章

「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(6節)

哲学者たちは、普遍的な善悪はないと言います。しかし、だからといってめいめいが自分の目に正しいと見えることを行うならば、無秩序状態に陥り、結果的に社会は崩壊していきます。士師記はそのことを証明しています。人は普遍的な善悪を必要としています。そして、普遍的な善悪は、神のみことばである聖書の中で告げられています。聖書は言います。

「人よ、何が善であり/主が何をお前に求めておられるかは/お前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛し/へりくだって神と共に歩むこと、これである。」(ミカ6:8新共同訳)

人はそれぞれ自分の基準で生きていくのではなく、神のみことばを信仰と生活の基準として生きていくことが大切です。