1歴代誌 21章

「しかし、ダビデ王はオルナンに言った。『いいえ、私はどうしても、十分な金額を払って買いたいのです。あなたのものを主にささげるわけにはいきません。費用もかけずに全焼のいけにえをささげたくないのです。』」(24節)

ダビデは王でしたが、祭壇を建てるためにオルナンから土地を搾取することはしませんでした。さらにオルナンから「すべてを差し上げます。」と言われたのにも関わらず、ダビデは自分が十分な金額を支払って買いたいと主張しました。オルナンから買わなければ、それはダビデの捧げ物ではなく、オルナンの捧げ物になるからだと言いました。このダビデの姿勢は神への捧げ物に関して私たちに大切なことを伝えていると思います。ダビデは神に捧げ物をすることを特権だと考えていたことは確かです。ダビデは神から何かを得ることよりも、神に捧げることに心を留めていました。

1歴代誌 20章

「彼はイスラエルをそしったが、ダビデの兄弟シムアの子ヨナタンが彼を打ち殺した。」(7節)

現代における旧約聖書解釈の難しい点は、今日の箇所のような血なまぐさい箇所です。人の命が軽視されているように感じてしまいます。当時の歴史的文脈もありますが、旧約聖書は旧約だという理解も大切です。「旧」が意味することは「古い」ということで、つまり「新約」からの理解が必要ということです。新約聖書にはこう書いてあります。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:12)。

私たちをそしっているのは、人ではなく、悪魔、悪霊です。私たちは敵を間違えてはいけません。聖書は注意します。

「もし互いに愛し合わず、いがみ合ったり、非難し合ったりしているなら、結局、共倒れになってしまいます。気をつけなさい。」(ガラ5:15LB)

1歴代誌 19章

「ダビデは、『ナハシュの子ハヌンに真実を尽くそう。彼の父が私に真実を尽くしてくれたのだから。』と考えた。そこで、ダビデは使者を送って、彼の父の悔やみを言わせた。ダビデの家来たちがハヌンに悔やみを言うため、彼のもと、アモン人の地に来たとき、アモン人のつかさたちは、ハヌンに言った。『ダビデがあなたのもとに悔やみの使者をよこしたからといって、彼が父君を敬っているとでもお考えですか。』」(2,3節)

他者からの善意を、裏を読みすぎて失敗するということがあると思います。自分の単なる思い込みで人間関係をおかしくしてしまうこともあります。とはいえ、この世では確かに裏がある場合もあります。ハヌンはどうするべきだったのでしょうか。彼はアモン人のつかさたちの助言を心に留めて警戒しつつも、素直にダビデの弔意を受け取るべきだったと思います。他者の善意を素直に受け止めることも大切なことだと思います。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1歴代誌 18章

「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。」(6節)

ダビデは行く先々で勝利を体験しました。聖書は、その理由を、ダビデと共にいた神が彼に勝利を与えられたからだと言います。聖書はこの現実を何度も伝えています。ピリピ人への手紙にもこう記されています。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(4:13)

榎本師はこんなことを言っています。

「ゆえに、私たちにとって大切なことは、何をするかということではなくて、いかに生きるかということです。」

イエス・キリストと共に生きるならば、私たち自身が問題でなくなりますので、大きな希望が与えられます。ですからイエス・キリストは今日も私たちに語ります。

「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)

イエス・キリストと共に歩むことができる人生は、祝福です。

1歴代誌 17章

「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちのもとに行くようになるなら、わたしは、あなたの息子の中から、あなたの世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。」(11節)

神は「ダビデの子」の王国を確立させると言いました。「ダビデの子」とは誰のことでしょうか?ソロモン王は、確かに「ダビデの子」ですが、彼の王朝はバビロン帝国によって絶たれてしまいました。その後バビロンから、ダビデの子孫であるゼルバベルはエルサレムに帰国しました。しかし、彼は王とはなりませんでした。数百年後、イエス・キリストはロバの子に乗ってエルサレムに入城しました。その時、人々はイエス様に対し、こう言いました。

「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」(マタイ21:9)

イエス様の王国は、今も絶えることはありません。

1歴代誌 16章

「ダビデは、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげ終えてから、主の名によって民を祝福した。」(2節)

まず神に礼拝をささげてから、様々な働き、奉仕、ミニストリーがあります。この順序が狂ってしまうときに問題が起きてきます。そもそも、神に礼拝を捧げることなくして、人々を祝福することはできません。

「すべての良いもの、完全なものは、光を造られた神様から来る」(ヤコブ1:17LB)

からです。まず、神の国と神の義を第一に求める中で、私たちは祝福の基となれます。「祝福する」と訳されるギリシア語は、「良い」と「言葉」が組み合わされた単語です。「感謝する」とも訳されます。使徒パウロはクリスチャンの言葉に言及してこんなことを言います。

「みだらな会話や下品な冗談は、あなたがたにふさわしくありません。むしろ、互いに神の恵みを心にとめて、感謝しなさい。」(エペソ5:4LB)

祝福のことばを語る者となりますように。

1歴代誌 15章

「最初の時には、あなたがたがいなかったため、私たちの神、主が、私たちに怒りを発せられたのです。私たちがこの方を定めのとおりに求めなかったからです。」(13節)

「あなたがた」とはレビ人のことです。契約の箱は、レビ人が運ぶことに決められていました。つまり問題の根底にあることは、

「いるべき場所にいるべき人がいなかった」

ということです。私たちは今、いるべき場所にいるでしょうか?

また、神は創造主ですから、私たち被造物が自分たちの都合の良い方法で関わることはできません。神の方法で近づかなければなりません。神の方法は聖書の中に記されています。私たちが神に近づくために新しく神が与えてくださった方法は、

イエス・キリストを信じる

ということです。イエス・キリストがすでに成し遂げてくださった十字架の御業に信頼するということです。そして十字架の御業は、すでに完成しました。

1歴代誌 14章

「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立て、主の民イスラエルのために、彼の王権がいよいよ盛んにされているのを知った。」(2節)

この箇所からダビデのリーダーシップについて学ぶことができます。彼はまず、

「主が彼を…立て」

とあるように、自分のリーダーシップは主からと意識していました。

「神によらない権威はどこにもありません。」(ローマ13:1LB)

と認識していたのです。ダビデはまた彼のリーダーシップは、

「主の民イスラエルのため」

と意識していました。つまり、仕えるための権威だと認識していたのです。イエス・キリストはこう言いました。

「あなたがたも知っているとおり、この世の王や高官は、支配者として権力をほしいままにしています。しかし、あなたがたの間では違います。偉くなりたければ、みなに仕える者になりなさい。」(マルコ10:42,43LB)

世界は、そのような謙遜なリーダーが必要とされています。

1歴代誌 13章

「私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。」(3節)

「神の箱」、それは神の臨在の象徴でもありました。しかしサウルの時代、それはほったらかしにされていました。神はサウルを王として選び、サウル王はイスラエルの国を建国し、権威者となりました。しかし、彼にとって「神の箱」などどうでもよかったのです。彼にとっての神は、その程度の存在だったのです。「あってもなくてもいい」、その程度の信仰だったのです。私たちはどうでしょうか。私たちにとって神に礼拝を捧げることは、どの程度の意味があるでしょうか。礼拝を捧げても、捧げなくてもいい、その程度のものでしょうか?神に礼拝を捧げることを顧みずにきてしまったならば、今、ダビデたちのように心を一新(考え方を新たに)しようではありませんか。まず、神の国と神の義を求めようではありませんか。

1歴代誌 12章

「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。」(22節)

ダビデが人を集めたということではありませんが、彼のもとに人が集まってきたと言います。初代教会も同じ現象が起こりました。

「神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47新共同訳)

第一に、神が人を集められるということだと思います。

第二に、「神を賛美していたので」とあるように、神を賛美する人の周りに、人は集まってくるというメッセージもあると思います。ダビデも、詩篇の作者としても有名なように、神を賛美する人でした。どんな状況でも神を賛美することを選ぶならば、日に日に、人々が私たちを助けるために私たちのもとに来るのではないでしょうか。

今日は主の日。主に心からの賛美と礼拝を捧げましょう。