ピリピ 3章

「私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(10,11節)

苦難を否定的に捉える現代社会では理解しがたい内容ですが、LBではこう訳しています。

「私は今、ほかのことをいっさい考えず、ただこのことだけを求めています。つまり、真にキリストを知ること、キリストを復活させた力を、この身をもって体験すること、そして、キリストと共に苦しみ、また死ぬとはどういうことかを知ることです。死者の中から復活した、生き生きとした新しいいのちに生きる者となるためには、どんな犠牲もいといません。」

「キリストの苦しみにあずかること」「キリストと共に苦しみ」と訳された単語は、「キリストの苦しみの交わり(コイノニア)」という単語です。苦しみに与った者こそ、人知を超えた聖霊の臨在を体験した信仰の仲間としての一体感を体験します。

ピリピ 2章

「こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、」(1節)

この箇所は、三位一体的に解釈することができます。まず、子なる神、キリストにあって励まし(または、慰め)があるようにという祈り。次に、父なる神にある愛の慰めがあるようにという祈り。そして、聖霊にある交わり(コイノニア)があるようにという祈り。最後の「愛情とあわれみ」は、「聖霊にある交わり」を解説していると理解できるかもしれません。LBでは、後半部分をこう訳しています。

「あなたがたは同じ御霊を共にいただいており、主にあって互いが兄弟であるということの、ほんとうの意味がわかっているでしょうか。やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか。」

「やさしい心と思いやりが、少しでもあるでしょうか」という問いは、いつの時代も、聖霊の共同体(教会)である私たち一人一人に投げかけられています。

ピリピ 1章

「それは、私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」(20節)

「私の身によって、キリストがあがめられることです。」

を直訳するならば、

「キリストが私の身体の中で大きくなることです」

と訳せます。キリストが大きくなると言うことは、自我の割合が小さくなることです。バプテスマのヨハネも、

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」(ヨハネ3:20)

と言いましたが、キリストが大きくなり、自分が小さくなるというのは、信仰者の心です。この時、パウロは投獄され、判決を待っていましたが、彼の心はいわゆる運命にではなく、結果的に、「キリストがあがめられること」という願いで満たされていました。私たちのすべてが、主に栄光を帰すものとなりますように。

エステル 10章

「それはユダヤ人モルデカイが、アハシュエロス王の次に位し、ユダヤ人の中でも大いなる者であり、彼の多くの同胞たちに敬愛され、自分の民の幸福を求め、自分の全民族に平和を語ったからである。」(3節)

モルデカイが尊敬された理由が二つあります。

一つは同胞の幸福を求めたこと。

もう一つは

「平和」

を語ったこと。

「平和」は聖書のキーワードの一つで、原語は「シャローム」。「平和、平安」という意味と同時に、「満たし、健康、福祉、健全、完全、無事、祝福など」の意味があります。使徒ペテロはこう言います。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和(シャローム)を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」(Ⅰペテロ3:10-12)

イエス・キリストが成し遂げられた和解、シャロームの実現に生きることができますように。

エステル 9章

「この日に、ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようと望んでいたのに、それが一変して、ユダヤ人が自分たちを憎む者たちを征服することとなった。」(1節)

神の民を滅ぼそうと企んだ者が、逆に滅ぼされました。もっとも神の民を滅ぼそうとしている本当の敵とは、暗闇の力、悪魔です。この暗闇の力があまりにも強大なので、時に私たちは滅ぼされそうに感じてしまいます。しかし、最終的に滅ぼされるのは悪魔の方です。聖書は言います。

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)

今、たとえやみの中にいるように感じても、キリストを心の中に歓迎するならば、必ず、希望の光は灯ります。キリストを信じる者は、ひとりも滅びることなく永遠のいのちを得ると聖書は約束します。

「ほんとうに恐れなければならない方を教えましょう。殺した後に、地獄に投げ込む力を持っておられる神を恐れなさい。神こそ、ほんとうに恐れなければならない方です。」(ルカ12:5LB)

エステル 8章

「王の名で書かれ、王の指輪で印が押された文書は、だれも取り消すことができないのだ。」(8節)

聖書の福音を理解するためには、この原則を理解する必要があります。

「罪から来る報酬は死です」(ロマ書6:23)

という文書も誰も取り消すことは出来ません。ですから、取り消す代わりに、別の文書が必要でした。

「ところが、神は私たちを救うために、別の計画を実行に移されました。すなわち、神のひとり子を、私たちと同じ体を持つ者として〔ただ、私たちのような罪の性質をもたない点では異なりますが〕世にお遣わしになったのです。そして彼を、私たちの罪のためのいけにえとして、私たちをがんじらめにする罪の支配を打ち破られたのです。」(ロマ書8:3LB)

神のひとり子、イエス・キリストは罪の支配を打ち破られました。イエス・キリストを信じる者に永遠のいのちが与えられるという文書も、だれも取り消すことはできません。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

エステル 7章

「こうしてハマンは、モルデカイのために準備しておいた柱にかけられた。」(10節)

この話は、ただ、悪者ハマンがやっつけられて、めでたしめでたしという類の話なのでしょうか。新約聖書の光から考えると、敵でさえ愛するように命じられたイエスの話と矛盾する感じもします。新約聖書的には、エペソ書6章にあるように私たちの本当の敵は、血肉をもった人間ではなく暗闇の支配者である悪魔です。では、何を神はここから私たちに教えたいのでしょうか?注目すべきポイントは、ハマンはモルデカイのために柱を用意し、しかもそれに自分がかけられたほど、準備は完全に整っていました。将棋で言う、次の一手で詰む状況でした。ところが大どんでん返しが起こったのです。神は、私たちがモルデカイのように99パーセント詰められたような状況においても、神は大どんでん返しの神だから、希望を捨ててはいけないと教えているのではないでしょうか。

エステル 6章

「その夜、王は眠れなかったので、記録の書、年代記を持って来るように命じ、王の前でそれを読ませた。」(1節)

エステルが一日ずらした結果、王はその夜、眠れなくて、記録の書、年代記を読ませました。その時、ユダヤ人モルデカイの記録を聞きました。そして、自分が何もしていなかったことに気づかされます。そして、モルデカイを殺害しようと企んできたハマンに、モルデカイに逆に栄誉を与えるという大ドンデン返しが起こります。これらが一夜にして起こったというところに私たちは心を留める必要があると思います。私たちは不安の中で、眠れない夜を過ごす時も、

「眠っている間に、このように備えて下さる」(詩篇127:2)

神に目を向ける必要があると思います。一夜にして状況を変えることができた神は今も生きておられます。ですから詩人は歌っています。

「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5)

エステル 5章

「もしも王さまのお許しが得られ、王さまがよろしくて、私の願いをゆるし、私の望みをかなえていただけますなら、私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」(8節)

エステルが、どうしてすぐに言わずにじらしたか私たちには分かりません。しかし、私たちが知っているのは、そのおかげで、王はモルデカイのことをもう一度心にとめる機会が与えられたこと、そして事がスムーズに進んだということです。これは、「神の時」があるということです。今、うまくいかない理由は、必ずしも行なっている内容が問題だとは限りません。単に、その時ではないという場合も十分考えられます。何でも挑戦することは大切なことですが、静まって、神の時を待ち望むことも大切なことです。
「主よ、あなたの時を教えてください。」

エステル 4章

「もし、あなたがこのような時に沈黙を守るなら、別の所から、助けと救いがユダヤ人のために起ころう。しかしあなたも、あなたの父の家も滅びよう。あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない。」(14節)

神は、私たちひとりひとりに目的をもっておられます。私たちが経験してきたこと、また、今与えられている環境も、すべて神の御手の中にあります。しかし、神は同時に私たちに自由意志を与えられました。神は私たちに目的をもっておられますが、それに応答するかしないかは、私たちの側に任されています。ですから、日々、祈りましょう。

「主よ、あなたは目的をもって私を造られました。ですから、私はその目的に生きたいのです。今日、私が何をなすべきかを教えてください。私はあなたのみこころに従います。」

主が与えられた機会(チャンス)に応答していくことができますように。