詩篇 75篇

「私たちはあなたに感謝します。神よ。私たちは感謝します。御名は近くにあり、人々はあなたの奇しいわざを語り告げます。」(1節)

ヒルティは、「幸福の最初の条件は感謝である」と言います。感謝することを知らないで、幸せな人はいないと言います。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「神よ。心から感謝します。この素晴らしい奇蹟の数々は、私たちをお心にかけてくださっていた証拠です。」

神様は私たち一人一人をお心にかけてくださっています。自分という存在そのものが「奇蹟」と言えると思います。イエス・キリストを信じることができることも、奇蹟です。アインシュタインはこう言いました。「人生には二種類ある。一つは奇跡はないと信じる人生、もう一つは、すべてのことが奇跡だと信じる人生だ。」日常の人生そのものが奇跡であると悟るならば、神様がどれほど、自分をお心にかけておられるかが分かると思います。

詩篇 74篇

「しいたげられる者が卑しめられて帰ることがなく、悩む者、貧しいものが御名をほめたたえますように。」(21節)

74篇は最初から最後まで、「神様、どうしてですか?」という叫びが綴られています。「神様、いつになったらこの状況から解放されるのですか?」「神様、どうして自分がこんな目にあわないといけないのですか?」「神様、あなたは私をお忘れになってしまったのですか?」このような絶望的な状況の中でも、なおも偉大な主に望みを置こうと必死で訴えるこの詩人の姿に、わたしたちは主の前に心を注ぎだすことの大切さを学びます。神様は、この状況から救い出すことのできる全能のお方だということを、詩人は信じている、否、知っているのです。神様を信頼している人だからこそ、本気で、真正面からぶつかっていくのではないでしょうか。
今日は主の日。主に信頼し、主に礼拝を捧げましょう!

詩篇 73篇

「まことに神は、イスラエルに、心のきよい人たちに、いつくしみ深い。」(1節)

「いつくしみ深い」と訳された言葉は、英語のGOODにあたる「良い」(トーヴ)という言葉です。詩人が語る土台的真理は

「神は良いお方」。

私たちの人生には、理解できないことがたくさんあります。この世界が崩れ落ちていくように見えても、混乱し、いっぱいいっぱいになってしまったとしても、この土台的真理‐「神は良いお方」‐を心に留める必要があります。しかし、苦しみの中で、私たちはまったく逆に考えてしまいます。「もし、神様が力あるお方ならば、どうして、こんなことが私に起るのか?」と。詩人も同じような悩みを体験しながら、神の臨在の中で目が開かれます。

「やがて私の体は衰え、気力も弱ります。しかし神は、いつまでも変わらず、心の支えとなってくださいます。」(26節LB)

神が、万事を益としてくださることをいつも覚えることができますように。

詩篇 72篇

「こうして、すべての王が彼にひれ伏し、すべての国々が彼に仕えましょう。」(11節)

すべての王がひれ伏し、仕えると預言された王こそ、メシヤ、キリストです。聖書は言います。

「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(ピリピ2:10,11新共同訳)

ですから、この箇所に出てくる「彼」こそ、イエス様のことです。

「彼は、身寄りのない者や貧しい者を保護します。弱っている者や困っている者をあわれんで、助けの手を差し伸べるのです。彼は、虐待されたり痛めつけられたりしている人を、黙って見過ごしにはできません。彼にとって、このような者たちのいのちはとても大切なのです。」(12‐14節LB)

まさに、福音書に出てくるイエス様の姿がここにあります。イエス・キリストこそ旧約が預言してきた王、メシヤ、キリストです。

詩篇 71篇

「神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。」(16節)

「神なる主」と訳された言葉は「主なるヤハウェ」。神の名前が用いられています。この節の全体を直訳しますと、

「主なるヤハウェの力の中に入っていき、あなたの義を覚える。あなたのだけ。」

となります。詩人は、神の偉大な御業を覚えて、ただ、神の義のゆえに、祈りの中に入って行きました。私たちが受け入れられるのはイエス・キリストの中にある神の義だけです。ですから、イエス・キリストだけを見上げなければ、祈りの中に入ることは困難です。また、神の力ある御業を覚えることが、私たちを祈りの中に導きます。また、神の力ある御業を語ることも大切です。

「何度、あなたが危ないところを助けてくださったか、数えきれないくらいです。会う人ごとに、あなたの恵み深さと、日々途切れることのない思いやりとを告げましょう。」(15節LB)

詩篇 70篇

「あなたを慕い求める人がみな、あなたにあって楽しみ、喜びますように。あなたの救いを愛する人たちが、『神をあがめよう。』と、いつも言いますように。」(4節)

「神を慕い求める」のは、聖霊がその人の内におられる証拠でもあります。使徒パウロもこう言っています。

「ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」(ピリピ3:12口語訳)

パウロがここで大事にしているのは追求心で、クリスチャンというのは、常に神を慕い求めるという飢え渇きがある者ということです。神を慕い求めていく中で、主にある楽しみ、喜びを、体験して欲しいというのが、ダビデだけではなく、神ご自身が願っていることです。

「あなたの救いを喜ぶ者には、『なんとすばらしい神でしょう!』と叫ばせてください。」(LB)

神に対する飢え渇きがあるならば、「なんと素晴らしい神でしょう!」と叫ぶ日は必ず来ます。

詩篇 69篇

「しかし主よ。この私は、あなたに祈ります。神よ。みこころの時に。あなたの豊かな恵みにより、御救いのまことをもって、私に答えてください。」(13節)

この詩を書いたダビデは逆境の中にいました。否定的になろうと思えばいくらでも否定的になれる状況にありました。しかし、彼は主に祈り、主に信頼することを選びました。自分のタイムテーブルを捨て、「みこころの時に」と、神の主権に自分の身を委ねました。それはあきらめの境地にいたったというわけではありません。なぜなら、それでも彼は神の豊かな恵みに期待しているからです。

「愛と恵みを十分に用意して、待っていてくださいます。」(LB)

私たちもダビデと同じような姿勢を持つことが大切だと思います。否定的になることを拒絶し、祈り、委ね、神の恵みに期待する。必ず、神は私たちの祈りを聞き、みこころの時に、万事を益としてくださる。このダビデのような姿勢を選択していくことができますように。

詩篇 68篇

「神の力を認めよ。みいつはイスラエルの上に、御力は雲の上にある。」(34節)

「神の力を認めよ」という言葉をLBは

「力の源は神です。」

と訳しています。

「神の力について、すべての人に語れ」(NLT)

という訳もあれば、

「神の力を宣言せよ」(NIV)

という訳もあります。パウロはこのように言いました。

「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

パウロは、イエス・キリストを力の源と認めることができれば、どんなことでもできると、神の力を宣言したのです。神は信じる者を滅びから救う力があります。病気をいやす力があります。祝福を与える力があります。聖霊で満たす力があります。

「宮でひざまずく時、口では言い表せないほどの厳粛さに打たれます。イスラエルの神は、ご自分の民を強くし、力を与えてくださいます。さあ、神をほめたたえましょう」(35節LB)

詩篇 67篇

「国民が喜び、また、喜び歌いますように。それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。」(4節)

LBではこう訳しています。「国々は、あなたが彼らの王となり、公平にさばいてくださると知れば、喜び、歌いだすでしょう。」イスラエルの人々の希望、それは、神ご自身が王となって治めてくださることです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、神ご自身が王となられたことを伝えます。天と地は、イエス・キリストの中で交わり、神の支配は、キリストを信じる者たちの間にすでにもたらされました。完全な神の支配は、この世の終わりにもたらされます。しかし今、神の民が共に集り、喜び歌う只中に、神の支配は始まっています。神の国に生きているならば、「喜び、歌いだすでしょう。」
今日は主の日。心からの賛美を王なる神に捧げましょう!

詩篇 66篇

「私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」(12節)

詩人にとって、人生は困難なものでした。しかし、今、神は詩人を

「よく潤された地」(MSG)

に導き出されました。荒野を通り抜け、渇きをいやす水を飲む時、生き返る心地がします。礼拝とは、キリスト者にとっては、そのようないのちを与える水のようなものでもあります。

「教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」(エペソ1:23LB)

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37,38)

生ける神に賛美と礼拝を共に捧げるその場所こそ、聖霊が満ち溢れる場所であり、生ける水の川が流れ出る場所です。神は私たちを、賛美と礼拝の場に連れ出そうとされています。