イザヤ 49章

「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。」(16節)

LBではこう訳しています。

「見よ。わたしはあなたの名を手のひらに刻んだ。わたしの目の前にはいつも、崩れたエルサレムの城壁が見えている。」

私たちは時として、

「神様は自分のことなんか忘れてしまったのではないか」

と感じてしまう時があります。

しかし、

それはありえない

と聖書は言います。

私たちがイエス・キリストを自分の救い主として信じる時に、私たちの名は神の手のひらに刻まれるというのです。ただ、墨字で書くのではなくて、永遠に残るように刻むというのです。つまり、神が私たちを忘れることはないということです。そして、神は私たちの状況もしっかりと分かっていると言います。神は決して私たちを見放さず、見捨てません。

イザヤ 48章

「あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。『わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。」(17節)

聖書の神は、私たちに益になることを教え、私たちを導いてくださる主です。具体的に、聖書には、私たちの益になることが記されています。ですから使徒パウロもこう言っています。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(Ⅱテモテ3:16新共同訳)

さらに聖書は私たちに有益なだけでなく、私たちの歩みを導いてくれるものでもあります。ですから、詩人はこう歌っています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩119:105新共同訳)

イザヤ 47章

「あなたに助言する者が多すぎて、あなたは疲れている。さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を並べたてて、あなたを救わせてみよ。」(13節)

この箇所はバビロン帝国に対する裁きの預言です。バビロン帝国は占星術が発展していた国でした。バビロンの人々は占星術者、呪術者たちに伺いを立てるのですが、それぞれが違う助言をして、混乱していました。そして、結局のところ、

「自分さえ救えないのだから、とても頼りにはならない。」(14節LB)

ということが起きていたのです。占いは聖書が禁じていることであり、私たちは気をつける必要があります。しかし、占いではなくても、助言する者が多すぎると、私たちは混乱してしまいます。助言を求めることがすべて悪いことではありませんが、まず、まことの神に祈り求め、みことばに耳を傾ける必要があります。

イザヤ 46章

「わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。わたしはシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。」(13節)

神の時があります。今日の箇所の前半部分をLBではこう訳しています。

「わたしはあなたがたを救う。遠い将来ではなく、今すぐに。すでにあなたがたを救う準備は整った。」

神の御業は遅れることはありません。最高のタイミングで成し遂げられます。ですから、詩人もこう言っています。

「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩46:1)

神は遠い存在ではありません。私たちの祈りに答えてくださる主は、今も生きておられ、今すぐに答えてくださる主です。それでも祈りの答えが遅れているとするならば、そこに神のご計画を認める必要があります。

イザヤ 45章

「わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。」(2節)

イエス様は弟子たちに

「さあ、ついて来なさい」(マルコ1:11LB)

と言われました。ついていくためには、イエス様の後ろを歩く必要があります。信仰生活は、まさに

イエス様の後ろを歩く

ようなものです。イエス様が前に進んでいるならば、険しい地は平らに、青銅のとびらは打ち砕かれます。さらにこの次の3節にはこんな約束があります。

「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

イエス様の後ろを歩いていくならば、隠された財宝、だれも知らない富が与えられるという世界もあると言います。私たちはイエス様の後ろを歩いているでしょうか?それとも、イエス様を見失っているでしょうか?

イザヤ 44章

「わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」(22節)

44章の前半は、

「偶像を造り、それを神にするとはなんと浅はかな者でしょう。そんな者たちの希望はむなしい夢にすぎません。」(9節LB)

とあるように、人が手で作った命もない偶像を礼拝することがどれほどむなしく、愚かなことかということが記されています。

「これはただの木切れではないか。…その残りが神ということがありえるだろうか。木切れにひれ伏すなど、ばかげている。」(19節LB)

私たちを造られた神はこの世界のすべてを創造されたお方です。このお方は言われます。

「さあ、わたしのもとに帰ってきなさい。あなたを自由にする代価は支払いずみだ。」(LB)

今日は主の日。主のもとに帰り、礼拝を捧げましょう。

イザヤ 43章

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(4節)

私たちを造られた神は、誰がなんと言おうとも、私たち一人一人は高価で尊い存在だと言います。残念ながらこの世界は、私たちの存在を肯定するよりも、否定することの方が多いと思います。悪魔というのは、私たちの存在、人格を否定することによって攻撃するのです。しかし、たとえ「誰も望んでいない」と言われたとしても、「神が望まれたから」私たちは今、存在しています。神にとって、私たち一人一人はかけがえのない存在なのです。神は私たち一人一人に将来と希望を与える目的をもっておられます。悪魔はその目的に私たちが生きないように、私たちの存在を否定しようとします。ですから、揺らぐことのない神の御言葉をしっかりと握りしめる必要があります。

イザヤ 42章

「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」(1節)

42章から「苦難のしもべ」と呼ばれるイエス・キリストに関する預言が語られています。

「彼は穏やかで、大声を上げたり路上で言い争ったりしない。いたんだ葦を折らず、今にも消えそうな火でも消さない。気落ちしている人を元気づけ、もうだめだとあきらめる者を励ます。こうして、痛めつけられた者たちに完全な正義が与えられるのを見届ける。」(2-3節LB)

イエス・キリストは、いたんでいるからといって、その葦を折ってしまうような方ではないと言います。今にも消えそうだからと言って、その火を消してしまうようなお方ではないと言います。イエス・キリストは死さえも打ち破りよみがえられたお方です。このお方はどんなマイナスも必ずプラスにしてくださいます。どんな人であってもあきらめることはなさいません。

イザヤ 41章

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」(10節)

今日、この神の約束を自分のものとすることができますように。どんな問題や困難があっても、神が共にいてくださるという約束を自分のものとすることができますように。LBではこう訳しています。

「恐れるな。わたしがついている。取り乱すな。わたしはあなたの神だ。わたしはあなたを力づけ、あなたを助け、勝利の右の手でしっかり支える。」

この約束を心に生きていくことができますように。使徒パウロもそのように生きていました。パウロはこのように表現しています。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

イザヤ 40章

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。」(28,29節)

イザヤ書は40章から雰囲気が変わります。ですから、学者によっては別の人が書いたのではないかと推測もされています。ちょうど、旧約聖書は39巻あり、40巻から新約聖書がはじまるように、この章から希望を感じるような預言が増えます。今日の箇所をLBではこう訳しています。

「まだわからないのですか。全世界を造った永遠の神は、決して疲れたり、衰弱したりしません。神の知恵の深さを推し測ることができる者は、一人もいません。神は疲れた者に力を、弱い者に活力を与えます。」

聖書の神は疲れた者に力を与えてくださる神です。弱い者に活力を与えてくださる神です。