エレミヤ 9章

「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行なう者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。―主の御告げ。―」(24節)

岩波訳で前の節と合わせて短い箴言風の断片としてこの箇所を紹介しています。

「誇らないように、知恵ある者は自分の知恵を。誇らないように、強い者は自分の強さを。誇らないように、富む者は自分の富を。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。まことに、わたしこそヤハウェ、地に、恵みと公正と正義を行なう者。まことに、これらのことをわたしは喜ぶ。‐ヤハウェの御告げ‐。」

いつの時代でも人間は、「知恵」「強さ」「富」を誇ります。しかし、使徒パウロは言います。

「『…自分を誇るな』と旧約聖書にあるとおりです。自分を誇り、その業績を自慢する人は、つまらない人間です。」(2コリ10:17,18)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

エレミヤ 8章

「彼らは、わたしの民の娘の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ。』と言っている。」(11節)

LBでは、今日の箇所をこう訳しています。

「彼らは、実際には平安がないのに、すべてがうまくいくと保証する。こうして、わたしの民のひどい傷に、効き目のない薬を塗っている。」

私たちの時代の問題の一つは、まさに、手軽ないやし、効き目のない薬を塗っているということだと思います。一人一人が神に心を注いで祈り求めることよりも、手軽なレシピを提供しようとします。聖書を開いて神のみことばを待ち望むよりも、手軽な助言を与えようとしてしまいます。本当のいやし、効き目のある薬は、イエス・キリストとの直接的な関係から流れてきます。私たちが本当にすべきことは、私たちの必要に唯一答えることができるイエス・キリストを指し示すことです。

エレミヤ 7章

「あなたがたは、『これは主の宮、主の宮、主の宮だ。』と言っている偽りのことばを信頼してはならない。」(4節)

神は

「偽りのことばを信頼してはならない」

と言います。当時のエルサレムの人々は神殿がエルサレムにあるから自分たちは大丈夫、安全だと思っていました。しかし、それは偽りのことばを信頼していると言います。どんなにエルサレムに神殿があっても、神を神として、神のみことばに聞き従う姿勢がなければ滅びると言います。神は言われました。

「次のことを守らなければ、ここにいることはできない。悪い思いと行いを捨て、人には公正に接し、みなしご、やもめ、外国人をだましたりしないこと。人殺しをやめること。偶像を拝んで自分を傷つけるような愚かなまねはしないこと。」(5,6節LB)

偽りのことばに振り回されないためにも、私たちはしっかりと聖書のみことばを学ぶ必要があります。

エレミヤ 6章

「エルサレムよ。戒めを受けよ。さもないと、わたしの心はおまえから離れ、おまえを住む人もない荒れ果てた地とする。」(8節)

LBではこう訳しています。

「エルサレムよ、これが最後の警告だ。わたしの言うことを聞かないと、この町をだれも住めないようにする。」

神のことばに耳を傾けないということは致命的であると言います。私たちはそれほどの意識をもって神のみことばである聖書に向かっているでしょうか?もっとも、エルサレムのように、神に背を向けた人たちを神があきらめられるという意味ではありません。今も神は、恵みの御手を伸ばして、すべての人が神の方に戻ってくるのを待っておられます。エレミヤはまさにエルサレムが陥落した後に、このように歌っています。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」(哀歌3:22)

エレミヤ 5章

「あなたがたの咎が、これを追い払い、あなたがたの罪が、この良い物を拒んだのだ。」(25節)

神は私たちに良いものを与えたいと願っておられますが、罪がそれを妨げると言います。罪は

「的外れ」

という意味がありますが、

神を無視して生きている人生

は、まさに

「的外れ」

ということになります。

人が本来造られた目的ではなく、暗闇の力に振り回されている状態

は、まさに

「的外れ」

と言えます。

自分の問題を棚上げして、「神が自分の願いをかなえてくれない」と言う

のは、まさに

「的外れ」

と言えます。私たちは神に文句を言う前に、自分自身を調べることも大切です。詩人もこう言っています。

「ああ神よ。私の心を探り、内面を調べ上げてください。あなたを悲しませるようなものがあるなら、教えてください。私が永遠のいのちへの道からそれないようにお導きください。」(詩篇139:23,24LB)

エレミヤ 4章

「まことに主は、ユダの人とエルサレムとに、こう仰せられる。「耕地を開拓せよ。いばらの中に種を蒔くな。」(3節)

LBでは、

「固くなったあなたがたの心を耕せ。」

と訳しています。ユージーン・ピーターソンという神学者は、この

「耕せ」

というのは、神のみことばを私たちが受けとるために私たちの心を悔い改めることによって整えることを表していると言います。神のみことばを受け取るためには、確かに、謙遜になる必要があります。自分の考え、自分の思い、自分のやり方で頭がいっぱいであるならば、神のみ言葉の種は、私たちの心に入る余地がありません。私たちは常に神のみことばが心に入りやすいように、心を整える必要があります。神を神として認め、聖書のみことばを神のみことばとして認め、謙遜に、聖霊なる神様にみことばを与えてくださるように、祈り求めることによって耕す姿勢が大事です。

エレミヤ 3章

「行って、次のことばを北のほうに呼ばわって言え。背信の女イスラエル。帰れ。――主の御告げ。――わたしはあなたがたをしからない。わたしは恵み深いから。――主の御告げ。――わたしは、いつまでも怒ってはいない。」(12節)

北イスラエル王国に対する神のみことばは厳しいものがあります。しかし、深いあわれみも含まれています。北イスラエルの神に対する愚行はひどいものでしたが、神はその怒りを恵みへと変えることをここで語られます。ただ、次の節に私たちは目を留める必要があります。それは、

「ただ、あなたは自分の咎を知れ。」(13節)

という言葉です。私たちもまた、神の深いあわれみの中で、イエス様の十字架の贖いによって赦されたものです。しかし、その罪の重さを感じることができなければ、赦されたことの素晴らしさもわかりません。

エレミヤ 2章

「おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民がわたしを忘れた日数は数えきれない。」(32節)

私たちは自分が何に時間とお金をかけているかということを、見直す時が必要だと思います。なぜならそのことが、私たちの現在の優先していることを知る鍵となるからです。神は私たちに世捨て人のような生活をするように強制しているわけではありません。詩篇の中にも、

「今日こそ主がつくられた日です。さあ、この日をぞんぶんに楽しみましょう。」(詩篇118:24LB)

とあります。しかし、聖書は言います。

「わたしの民は、最も貴重な宝であるわたしを、長い間忘れたままでいる。」(LB)

神がどれほど貴いお方であるかを忘れてしまい、神を意識せず、感謝をささげることもなく生きることは「神を忘れた日」としてカウントされているということだと思います。

今日は主の日。主を意識し、共に礼拝を捧げましょう。

エレミヤ 1章

「だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、――主の御告げ。――あなたを救い出すからだ。」(19節)

神は決して偽の口実を通して人を呼ばれることはありません。神はエレミヤに、わたしの方法に従えば、何の問題もなく簡単にやり遂げられるとは言いませんでした。逆に、戦いがあると言いました。

「彼らを怖がるな」(17節LB)

とありますが、恐れるような状況に直面することも伝えています。しかし、同時に神は約束されました。

「彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。」なぜなら、「わたしがあなたとともにいて、必ず救い出すからだ。」(19節LB)

神を恐れない人に神が語られることを語ることは勇気のいることです。エレミヤは涙の預言者と呼ばれました。涙を流して人々に神に立ち返るように勧めたからです。しかし、人々からあざけられ、迫害されました。それでも語り続けました。神が共にいて、救い出したからです。

2テモテ 4章

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2節)

使徒パウロが、若い伝道者であるテモテに命じたことは、みことばを宣べ伝えることでした。ですから、キリスト教会の主日礼拝の中心は、みことばを宣べ伝えること、聖書のメッセージです。使徒パウロは、エペソの長老たちにこう言いました。

「ですから、私はきょうここで、あなたがたに宣言します。私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26,27)

「神のご計画の全体」ということは、聖書の全体と理解することができます。創世記から黙示録まで、教会は余すところなく聖書のみことばを語る責任があります。