エレミヤ 19章

「イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。『見よ。わたしはこの町と、すべての町々に、わたしが告げたすべてのわざわいをもたらす。彼らがうなじのこわい者となって、わたしのことばに聞き従おうとしなかったからである。』」(15節)

当時の人々の問題は、強情を張り、神のことばを聞こうとしなかったことでした。しかし、人間の本質は昔も今も変わることなく、今も強情を張って、神のことばに耳を傾けようとしないという問題があります。信仰は聞くことから始まりますから、聖書のみことばに耳を傾けないことには何も始まりません。自分の思い、自分の考えを優先させ、聖書の権威を認めることができなければ、当時のイスラエルの人と同じ過ちを繰り返してしまうことになります。心をやわらかくして、聖書の権威を受け入れ、神のみことばに耳を傾けることができますように。

エレミヤ 18章

「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ。―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。」(6節)

「この陶器師のように」とありますが、前半部分にこう記されています。

「『さあ、陶器を作っている者の家に行きなさい。そこで、あなたに話そう。』言われたとおりにすると、陶器師はろくろを回している最中でした。ところが、彼は手がけていたつぼが気に入らなかったので、それをつぶして粘土のかたまりに戻し、初めからやり直しました。」(2-4節LB)

この時、神がエレミヤに語られました。神は陶器師のような方であり、私たちはまさに神の手の中にある粘土のような存在です。これは、絶対的な神の主権を現しています。

神は神であり、人は人である

というこの絶対的な神の主権を認めることは大切なことです。

エレミヤ 17章

「わたし、主が心を探り、思いを調べ、それぞれその生き方により、行ないの結ぶ実によって報いる。」(10節)

LBではこう訳しています。

「ただわたしだけが人の心を知っていて、隅々まで探り、一番奥に隠された動機まで読み取る。そして、一人一人にそれぞれの生き方に応じた報いを与える。」

神様私たちの心、私たちの動機の部分まで見ておられると聖書は言います。このことをよく現しているのがヨブ記です。ヨブ記は、どうして私たちがこの地で正しく生きようとするのか、その動機は何か?ということがテーマになっています。

ご利益があるから正しく生きようとするのか?

もし、そうならば、

ご利益を失ったら、正しく生きることをやめてしまうのか?

神は、まさに、私たちの動機の部分を見ておられると聖書は言います。結局のところ私たちの動機は、私たちの生き方にも反映します。

エレミヤ 16章

「人間は、自分のために神々を造れようか。そんなものは神ではない。」(20節)

LBではこう訳しています。

「神を造ることが人間にできるでしょうか。人間の造る神々は本物の神ではありません。」

人間が造ることができる神々は、聖書的には神ではありません。聖書に出てくる神の名は

「YHWH」

で、それは英語の「BE動詞」にあたり、存在を意味します。

「自立自存」

という意味です。つまり、何か原因があって存在したものは、聖書の定義では神とは呼べないのです。ですから人間が造り出したものは、神とは呼べません。しかし、いつの時代も人間は神々を造ろうとします。自分に都合のよい神々を造り出そうとするのです。しかし、聖書ははっきりと、「そんなものは神ではない」と言います。私たちは、自分の理想の神々を考え出すのではなく、神の言葉である聖書からまことの神を学ぶ必要があります。今日は主の日。主なる神を心から礼拝しましょう。

エレミヤ 15章

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。万軍の神、主よ。私にはあなたの名がつけられているからです。」(16節)

神のみことば、すなわち聖書のみことばは、楽しみであり、私たちの心の喜びです。LBではこう訳しています。

「神のおことばは、私をしっかり支えます。それは、飢え渇いた私のたましいにとっての食物です。私の重い心に喜びをもたらし、楽しみで満たしてくれます。主よ。私は、神の預言者にされたことを誇りに思います。」

確かに、聖書のみことばは、私たちをしっかりと支えます。私たちの日々の糧であり、重い心に喜びをもたらします。エレミヤは

「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。」

と言いましたが、私たちも聖書を開いて、神のみことばを味わいましょう。

エレミヤ 14章

「異国のむなしい神々の中で、大雨を降らせる者がいるでしょうか。それとも、天が夕立を降らせるでしょうか。私たちの神、主よ。それは、あなたではありませんか。私たちはあなたを待ち望みます。あなたがこれらすべてをなさるからです。」(22節)

LBではこう訳しています。

「どこの国の神が、私たちのために雨を降らせるでしょう。私たちの神、主以外に、そんなことのできる方はいません。ですから私たちは、あなたが助けてくださるのを待っています。」

イエス・キリストは言いました。

「人にはできない事も、神にはできる」(ルカ18:27)。

私たちが信じている聖書の神は何でもできる神様です。ですから私たちはこのお方、イエス・キリストを待ち望むのです。このお方こそ、

「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方」(エペソ3:20)

です。

エレミヤ 13章

「耳を傾けて聞け。高ぶるな。主が語られたからだ。」(15節)

メッセージという訳ではこう訳しています。

「聞きなさい。注意深く聞きなさい。あなたのやり方に固執してはいけない。ここでは、神のメッセージを取り扱っているのだから。」

自分の考え、自分のやり方に固執しすぎますと、神のみことばを聞くことができなくなってしまいます。自分の哲学が神のみこころを理解しようとする思いを邪魔するのです。そもそも自分の考えと神の考えを天秤にかけてしまうこと自体、思い上がっているということを示します。謙遜に神のことばを聴くかどうかは、私たちの選択に委ねられています。使徒パウロもこう言っています。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17新共同訳)

「主が語ったのですから、素直に聞きなさい。そのように思い上がり、強情を張ってはいけません。」(LB)

エレミヤ 12章

「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでも、さばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか。」(1節)

神に質問をすることは、悪いことではありません。生きている限り、疑問を持つことがないほうが不自然です。しかし、神に挑戦することは問題です。エレミヤは、

「神様が正しいのは分かっていますが、二,三のことを話させてください」

と言います。それは、不信仰だということではなく、信じているがゆえの質問であり、神はそれを受け止めてくださいます。しかし、

「もし、神様が正しいなら・・・」

という類のものは別です。これは、神が正しくないと反抗していて、人生を迷宮入りにさせてしまいます。詩篇73篇の作者も同じような疑問に苦しみました。詩人は

「ある日、神の聖所で瞑想していた時、…悟った」(17節)

と言います。み言葉を瞑想(meditate)する時間は大切です。

エレミヤ 11章

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から導き出した日に、彼らをはっきり戒め、また今日まで、『わたしの声を聞け。』と言って、しきりに戒めてきた。」(7節)

LBではこう訳しています。

「わたしは、あなたがたの先祖をエジプトから助け出した時から今日まで、くり返し、『わたしのすべての命令に従え』と言い続けてきた。」

イエス様が与えた命令は二つだけです。

「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」」(マルコ12:29-31)

神を愛し、隣人を愛すると、主がくり返し言い続けていることを私たちは心に留める必要があります。

エレミヤ 10章

「主はこう仰せられる。「異邦人の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。」(2節)

古くからバビロニアで占星術がよく行われていたことは歴史的に認識されています。ですからLBではこう訳しています。

『星占いで、自分の運命や将来を知ろうとする者のまねをしてはいけない。』

占いの危険性は、その占いに人生が縛られてしまうということがまず挙げられます。占いは、結局、その人を支配します。もちろん、悪霊の問題もあるのですが、それ以上に神を求めるということを妨げます。神のみこころを求めて、祈り、聖書を読むという神との親しい関係を築くことを妨げます。神の計画は、はっきりしています。神は言われます。

「それは災いではなく祝福を与える計画で、将来と希望を約束する。」(エレミヤ29:11LB)