ホセア 5章

「わたしはエフライムを知っていた。イスラエルはわたしに隠されていなかった。」(3節)

人は、アダムとエバ以来、神から隠れられると思う傾向があります。私たちがしていることを神は知らないと思ってしまうのです。しかし、アダムとエバが隠れることができなかったように、人は、神から隠れることはできません。神は、「わたしに隠されていなかった」と言います。神はすべてのことを見ておられ、すべてのことを知っておられます。私たちが考えていることでさえ、神に隠すことはできません。すべてのことを知った上で、イエス・キリストは私たちのために死んでくださいました。すべて知った上で、神は私たちを愛されているのです。私たちは何も隠すことなく、神に正直に語り、告白し、委ねることができます。

ホセア 4章

「わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。」(6節)

この箇所で神は、当時の宗教指導者たちが、本来、神の御言葉を教える立場にあったのにも関わらず、その役割を成し遂げなかったことを批判します。人々が滅ぶ理由は、彼らが神のみことばを教えなかったからだと言うのです。残念ながら、この現象は今も続いています。影響力がある立場にある宗教指導者たちの中には、聖書に対して不信感を抱かせるようなことを言い、あたかも聖書は信頼できないもののように教えている人たちがいます。そして、聖書に生きる思いを挫き、滅びに向かわせます。私たちは、「聖書は誤りなき神のことば」という知識を広める必要があります。そして、時が良くても悪くても、聖書のみことばに学ぶ必要があります。

ホセア 3章

「そこで、私は銀十五シェケルと大麦一ホメル半で彼女を買い取った。」(2節)

ホセアは、自分を捨て、わがままきままに自堕落な生活を選び、落ちぶれ、奴隷として売られていた妻を、お金を支払って買い戻しました。イエス・キリストもまた、神に背を向け、わがままに生き、暗闇の奴隷となっていた私たちのために、ご自身のいのちという値を支払って買い戻してくださいました。使徒ペテロはこう言っています。

「ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(Ⅰペテロ1:18,19)

だからこそ使徒パウロはこのように勧めます。

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:20)

ホセア 2章

「それゆえ、見よ、わたしは彼女をくどいて荒野に連れて行き、優しく彼女に語ろう。」(14節)

神は私たちをくどかれるお方だと言います。私たちがどんなに不誠実でも、神は私たちを愛することをやめることはできません。しかし、神が私たちをくどいて、優しく私たちに語るために連れて行く場所は、「荒野」だと言います。「荒野」と聞いて連想することは、「試練」だと思います。確かに、私たちは「試練」の中で、祈りに導かれ、その中で、神の優しい語りかけを聞くことが多々あります。そう考えると、もしかしたら、私たちの人生の中に起こる試練は、神のくどきと言えるかもしれません。ですから、荒野のような時こそ、私たちは神の優しい語りかけを聞く時ということを意識して、祈りつつ、御言葉に耳を傾ける必要があります。神は優しく、語ってくださいます。

ホセア 1章

「ユダの人々とイスラエルの人々は、一つに集められ、彼らは、ひとりのかしらを立てて、国々から上って来る。イズレエルの日は大いなるものとなるからである。」(11節)

ホセアは紀元前722年の北王国の滅亡の前に、北王国に遣わされた預言者です。彼は遊女と結婚することによって、神の民イスラエルの不誠実さを象徴的に表すという使命をいただきました。ユダの人々とは南王国のことで、ここでは主の日に北王国と南王国が一人の指導者(メシア)を立てて統一されることが預言されています。使徒パウロはローマ書でホセア書を引用し、ユダヤ人と異邦人がキリストを立てて統一されたことがこの預言の成就だと語っています。聖書は言います。

「ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。」(ガラテヤ3:28)

今日は主の日。共に主を礼拝しましょう。

ヘブル 13章

「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(15節)

神が「いけにえ」を規定されました。イスラエルの人々は、「いけにえ」を守りました。しかし、「いけにえ」は形骸化し、心が伴わないものとなりました。ダビデは罪を犯した後、悔い改めて、こんな歌を作りました。

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)

神は私たちの賛美を愛されますが、私たちの心からの賛美を願われます。ですから、賛美が「いけにえ」と呼ばれます。口先ではない、心からの賛美が捧げられることを、神は願っておられます。

へブル 12章

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(2節)

イエス様は、私たちの信仰の創始者であり、完成者だと聖書は言います。私たちの信仰は、イエス様から賜物として与えられているものです。そして、イエス様は私たちから離れることなく、信仰の働きを完成してくださいます。ですから、使徒パウロは言いました。

「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」(ピリピ1:6)

主は、あなたを見捨てるためにここまで導かれたわけではありません。主は必ず、主の働きを完成されます。ですから、私たちはただ、イエス様から目を離さないことが大切です。

ヘブル 11章

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(6節)

神に喜ばれる者となるためには、信仰が必要です。私たちは二つのことを真剣に信じる必要があります。第一番目に

「神がおられること」。

神の存在を信じることができなければ、神に喜ばれることはありません。天地万物を創造し、支配される三位一体なる神を、信じる必要があります。私たちを愛し、私たちに関心をもっておられる生ける神の存在を信じる必要があります。第二番目は、

「神を求める者には報いてくださる方であること」

を信じる必要があります。特に、「求める」と訳された言葉は「熱心に求める」という意味があります。私たちの熱心な祈りに答えてくださる神がおられることを信じる必要があります。

へブル 10章

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(25節)

教会と言う時、見えない普遍的教会と見える地域教会が存在します。今日の箇所は、目に見える地域教会の教会員として、一緒に教会に集まることの大切さが語られています。いっしょに集まることによって互いの存在を通して励ましあうことができます。いっしょに集まることによって、キリストの体としての機能を果たすことができるようになります。いっしょに集まることを通して教会は、キリストの体の一部としての適切な発展をすることができます。教会はこの世界の希望です。教会の創始者はキリストであり(マタイ16:18)、私たちが共に集まるそのただ中に、キリストは臨在されます。(マタイ18:20)教会生活を大切にしましょう。

ヘブル 9章

「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。」(27,28節)

聖書は言います。

「罪が支払う報酬は死です。」(ローマ6’23共)

キリストは、私たちの罪のために、「罪が支払う報酬」を払ってくださいました。そして、キリストは死に勝利され、復活されました。そして、再びこの世の終わりに、この地に来られます。この世全体の終わりが来なくても、すべての人には、個人的なこの世の終わりが存在します。人は死亡率が一〇〇%、無視できません。聖書はさらに、その後、神の御座の前に立つことも定まっていると言います。しかし、キリストを救い主として信じているのならば、その日を恐れる必要はありません。