ミカ書 6章

「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」(8節)

何が良いことで、何を神が求めておられるかが記されています。

第一番目は、公義を行うこと。

神は義なる神ですから、私たちが不正をすることを望まれません。

第二番目に、誠実を愛すること。

「誠実」と訳された英語の単語は、「信仰が満たされる」(faith-ful)と書きます。「信仰に生きること」と「誠実に生きる」ことは、コインの裏表です。

第三番目は、へりくだって神と共に歩むこと。

もっとも、神の方がへりくだり、人となり、私たちと共に歩んでくださいました。神の御子、キリストの十字架のゆえに、キリストを信じる者は、生ける神と共に人生を歩むことができます。自分の力で何でもできると傲慢にならず、へりくだって神と共に歩むことができますように。

ミカ書 5章

「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」(2節)

預言者ミカは、紀元前八世紀ごろの預言者です。つまり、キリストが生まれる八〇〇年以上も前から、キリストはベツレヘムで生まれると約束されていたのです。さらに、キリストがベツレヘムで生まれることは、永遠の昔からの定めだと言います。ベツレヘムで生まれるキリスト方は、永遠の昔から存在されるお方だと言うのです。ヨハネは言いました。「初めに、ことばがあった。」(ヨハネ1:1)つまり、キリストは、誰かが創造した被造物ではなく、最初から存在される三位一体の子なる神なのです。キリストは十字架の上でイスラエルの支配者になりました。ですから十字架に掲げられた罪状書きは「ユダヤ人の王」でした。

ミカ書 4章

「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、国々の民はそこに流れて来る。」(1節)

LBではこう訳しています。

「しかし、終わりの日に、シオンは世界中の山々で最も名を知られるようになり、世界のすべての国々から称賛され、世界中から巡礼が訪れる。」

今でも、多くの巡礼者たちがエルサレムを訪れていますが、この世の終わりは、その比ではないと言います。なぜなら、

「その日には、主がエルサレムから全世界を支配する」(2節LB)

からです。聖書が教えていることは、この世の終わりに、クリスチャンはある日突然天に引き上げられ、この地に大患難時代が訪れます。その後、キリストが再臨し、千年王国と呼ばれる時代が来ます。

「彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。」(黙示録20:6新共同訳)

千年王国の時代にこの箇所は完全に成就します。その日を待ち望みつつ、日々の生活においても、キリストの統治を祈ります。

ミカ書 3章

「しかし、私は、力と、主の霊と、公義と、勇気とに満ち、」(8節)

ミカは、当時のイスラエルの指導者や預言者の堕落を指摘した後に、こう言いました。

「しかしわたしは主のみたまによって力に満ち、公義と勇気とに満たされ、」(口語訳)

イエス様は、弟子たちに言いました。

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1:8)

この力こそ、預言者ミカが体験した力です。この力こそ、私たちが今必要としている力です。私たちはどんなにこの力を体験することが必要でしょうか。この力を求めることよりも、他の何かで誤魔化そうとしていないでしょうか。聖書は言います。

「泣くのも悲しむのも、聖霊が上から私たちに注がれるまでです。そして、悪い荒地に作物は育ち、肥沃な地は森となる。」(イザヤ32:15MSG)

私たちは聖霊に満たされる必要があります。聖霊を求めましょう。

ミカ書 2書

「ヤコブの家がそんなことを言われてよいものか。主がこれをがまんされるだろうか。これは主のみわざだろうか。私のことばは、正しく歩む者に益とならないだろうか。」(7節)

「主がこれをがまんされるだろうか。」

と訳された文は、原文を直訳しますとこう訳せます。

「主の霊は制約されるだろうか」。

当時のイスラエルの人々(ヤコブの家の意味)は、ミカの語る神からの預言を、たわごとと言い、語るなと言いました。彼らは、聖霊なる神の言葉を聞きたくないと言ったのです。ミカの時代の人々は、聖霊なる神の働きをコントロールし、制約しようとしました。今の時代も、聖霊なる神の働きを、自分たちが理解できる範囲内にコントロールし、制約しようとする人々がいます。聖書に出てくるような聖霊の働きは、聖書の時代にはあったけど、今は、もうないと言うのです。しかし、聖霊なる神を私たちの理解できる範囲内に制約する事は、誰にも出来ません。

ミカ書 1章

「見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる。」(3節)

旧約聖書は、ヤハウェなる神ご自身が天の御住まいを出て、この地に降りて来られ、神ご自身が正義をもたらせ、この地を治められることを預言してきました。聖書は言います。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(ピリピ2:6,7)

神の御子、イエス・キリストは預言の通り、天の御住まいを出、降りて来られました。そして、あらゆる病気を癒し、悪霊を追い出すことを通して、神の正義をこの地にもたらされました。しかし、その究極は、十字架にありました。十字架で、私たちの罪のために死なれることを通して、神の正義をこの地にもたらされました。預言の通り、神の支配はキリストによってもたらされています。今日は主の日。共に主を賛美し、礼拝を捧げましょう!

1ヨハネ 5章

「そのあかしとは、神が私たちに永遠のいのちを与えられたということ、そしてこのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。」(11,12節)

これほど簡潔で明確なことばはないと思います。LBではこう訳しています。

「神の言われたこととは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったこと、そして、永遠のいのちが神の御子のうちにあるということです。そういうわけで、神の子を信じる人にはいのちがあり、信じない人にはいのちがないのです。」

「すべての道が神に通じる」と言う人がいます。「誠実であれば、神は受け入れてくださるはずだ」と言う人がいます。しかし、誰がなんと言おうと、神が言われたことは、イエス・キリストを信じることなく永遠のいのちはありません。ですから私たちはイエス・キリストを宣べ伝える必要があります。

1ヨハネ 4章

「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(7,8節)

イエス様が私たちに与えた戒めは互いに愛し合うことです。私たちは自分の愛の欠如に心を痛めますが、その愛の源は神だと聖書は言います。ですから、私たちが互いに愛し合うことを選ぶとき、神ご自身が私たちを助けてくださいます。

「もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。」(12節)

もし、神が私たちのうちにおられるなら、私たちは何も恐れる必要はありません。

「あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。」(4節)

「キリストと共に歩む時、私たちの愛は成長し、いっそう完全なものとなっていきます。」(17節LB)

1ヨハネ 3章

「愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。」(8節)

イエス・キリストを信じる者は、「今すでに」神の子どもです。しかし、後の状態は「まだ」明らかにされていません。

「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、/人の心に思い浮びもしなかったことを、/神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」(1コリント2:9口語訳)

私たちは今、この「すでに」と「まだ」の間に生きています。はっきりしていることは父なる神の愛の大きさです。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」(1節新共同訳)

1ヨハネ 2章

「若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。」(18節)

キリストを信じる者は、戦いの中にいます。戦いは、私たちの思考に関する戦いであり、私たちの人生を決定づける戦いです。神は、私たちが神との関係を築き、祝福された人生を歩むことができるように、私たちの人生を治めたいと願われています。しかし、サタンは、私たちを滅ぼすことができるように嘘を用いて私たちの人生を支配しようとします。この戦いに勝つ方法は、神のみことばのうちにとどまることだと聖書は言います。ダビデもこう言っています。

「あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。」(詩篇119:11)

神のみことばを心に蓄えることがサタンの嘘にだまされないためにも必要です。