ルカ 13:1-30

「そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」」(13:18,19)

からし種が、空の鳥が枝に巣を作るような木になると言うのは誇張表現です。しかし、神の国はそのように超自然的な生長をするというポイントがあります。

「教会は必ず成長する」

という信仰はこのみことばにあります。もっとも、ここに出てくる空の鳥は一般的に否定的な事柄として解釈されます。教会が成長すると同時に、様々な問題の巣ができることもイエス様は忠告していたと言われています。世界的に見ても、日本の教会だけがなぜか成長していないように見えますが、神の御言葉は真実です。必ずイエス・キリストの教会は成長します。

ルカ12:35-59

「そこで、ペテロが言った。「主よ。このたとえは私たちのために話してくださるのですか。それともみなのためなのですか。」」(12:41)

ペテロの質問は、聖書を読む時に誰もが疑問に感じることだと思います。

「主よ。今のお話は、私たちにだけ話されたのですか。それとも、ここにいるみんなのためなのですか。」(LB)

イエス様の答えは明確ではありません。しかし、この話の中の主人が、イエス様のことを指していることは確かです。そして、イエス様が再び来られること(再臨)は確かです。

「主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。」(47節)

教会という文脈における責任認識の問題は明確です。ここでは、イスラエルという国の責任も問われています。すべての人はやがて、義務を果たしたかどうかが問われます。ただ、

「すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。」(48節)

ルカ 12:1-34

「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。」(12:6)

アサリオンは当時の労働者の一日分の労賃の十六分の一でした。マタイでは、

「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。」(10:29)

とありますので、四羽買うと一羽おまけしてくれるということかもしれません。いずれにせよ、一羽では値がつかないことは確かです。一羽では価値がないとされてしまう雀の一羽でさえも、神が忘れることはないと言います。神の目には私たち一人一人は大切な存在、神が

「わたしの目には、あなたは高価って尊い」(イザヤ43:4)

と言われる存在です。

「だから、恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりはるかに価値があるのですから。」(7節LB)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

ルカ 11:33-54

「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」(11:34)

イエス様は肉体的な目に関して言及しているわけではないと思います。とはいえ、私たちは何を見ているかは重要なことです。一般的に言って、私たちが得るものは、私たちが見ているものです。私たちの視点をどこに合わせるかが、私たちの方向性も左右します。箴言にもこう書いてあります。

「あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。」(4:25)

後ろばかり見ていたら、横ばかり見ていたら、前に進むことはできません。また、多くの場合、私たちは見ているものの影響を受けます。ですから、聖書は言います。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」(ヘブル12:2)

ルカ 11:5-32

「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(11:9)

直前の8節をリビングバイブルではこう訳しています。

「しかし、友達だからというのでは何もしてくれなくても、しつこく戸をたたき続けるなら、その根気に負けて、必要な物を出してくれるでしょう。祈りも同じです。」

つまり、イエス様は、しつこく祈り続けることを教えています。あきらめずに祈り続けるように教えています。詩篇にこういう箇所があります。

「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くあられる。」(145:18)

神は私たちが謙遜になって主を呼び求めることを待っておられます。

ルカ 10:25-11:4

「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」(11:4)

ブラジルに、クリスチャンが運営する刑務所がありました。その場所は、ヒューメータと呼ばれ、キリスト教の精神に基づいて運営されていました。このヒューメータには、驚くほどの記録がありました。アメリカとブラジルの再犯率が七五%、日本は約五〇%。しかし、ヒューメータの再犯率は、四%でした。その秘密は、過去に拷問室として使っていた刑場にあると言われます。そこには一人の囚人が収容されていました。その囚人とは、ヒューメータの服役者たちが彫刻した、十字架に付けられた、イエス・キリストでした。イエス様が自分のために死んでくださったということを理解した受刑者たちは、再犯することはありませんでした。

ルカ 9:57-10:24

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(10:20)

メッセージという訳では、こう訳しています。

「偉大な勝利は、あなたの悪に対する権威ではなくて、あなたの上にある神の権威とあなたとともにある神の臨在のゆえです。あなたが神のためにしたことではなく、神があなたのためになされたことです。これが、喜ぶべきことです。」

私たちではなく、イエス・キリストに権威がありますので、イエス・キリストを信じる者が、イエス様の名前によって祈る時に、人間の知恵、力を超えた大きな御業がなされます。偉大なのは神です。ですから、私たちはいつも自分がしたことではなく、神がしてくださったことを覚え、感謝する姿勢が大切です。

ルカ 9:28-56

「栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」(9:31)

新改訳二〇一七では、欄外で直訳としてこう記しています。「成就しようとしている出発」。「ご最期」(出発)と訳された単語は、「出エジプト」を意味します。つまり、ここでは、イエス様がエルサレムで完成させようとしている「神の人類に対する栄光への脱出プロジェクト」について、話されていたということです。私たちを解放するために、イエス様がエルサレムで完成させた「神の人類に対する栄光への脱出プロジェクト」、それが、イエス・キリストの十字架です。聖書は言います。「「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。」(ローマ10:13)この「神の人類に対する栄光への脱出プロジェクト」を自分のものにするためには、だれでも主の御名を呼び求めればいいのです。

ルカ 9:10-27

「イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(9:23)

イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら」、わたしの弟子になりたいならば、「自分を捨てる」必要があると言われました。「自分を捨てる」とは「自分の所有権を放棄する」という意味です。自分のもっている権利を放棄して、キリストに明け渡すことです。自分の考え、計画、欲望、感情に自分の人生を支配されるのではなく、イエス様ご自身に支配していただくということです。そうするならば、本当の自分を見いだすと言います。「日々自分の十字架を負い」とあるように、一日一日その日の分の十字架があります。明日の分まで負う必要はありません。Carpe Diem Gloriae Dei. 神の栄光のために、今を生きていくことができますように。

ルカ 8:40-9:9

「これを聞いて、イエスは答えられた。「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります。」」(8:50)

イエス様がヤイロに命じたのは二つのことでした。一つは恐れないこと。もう一つは、ただ信じること。両方とも難しいことです。特に、娘がなくなったという知らせを受けた後に、どうして、恐れずに、信じることができると言うのでしょうか。当時、死者に触れることは穢れることを意味していました。ですから、イエス様がヤイロの娘の手をとったという記述は、ヤイロが恐れずに、信じ続けていた証拠です。その結果、ヤイロの娘は生き返りました。恐れずに、信じ続けなければ、見ることができない神様の御業があります。恐れずに、信じ続けることができますように。
今日は復活祭(イースター)。死からよみがえられ、今も生きておられる主に、共に礼拝を捧げましょう!