1コリント 7:17-35

「あなたがたが思い煩わないことを私は望んでいます。」(7:32)

イエス様は言われました。

「…御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない…」(マタイ13:22共)

世の思い煩いが、私たちの人生を実らせないようにします。それで聖書は何度も、

「思い煩わないように」

と言います。思い煩いが私たちの目をキリストから離させるからです。いろいろな思い煩いがありますが、31節にはこうあります。

「この世の魅力的なものに接する機会の多い者たちは、その機会を正しく利用し、おぼれることがないようにしなさい。現在あるがままの世界は、やがて過ぎ去るからです。」(LB)

「私がこう言うのは、あなたがた自身の益のためです。あなたがたを束縛しようとしているのではありません。むしろ、あなたがたが品位ある生活を送って、ひたすら主に奉仕できるためなのです。」(35節新改訳二〇一七)

今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

1コリント 7:1-16

「以上、私の言うところは、容認であって、命令ではありません。」(7:6)

コリント人への手紙は、手紙であり、規則書ではありません。一世紀の地中海沿岸地域の人々が抱えていた問題に対して、ここでパウロは牧会的助言をしています。重要なポイントは、

「一人ひとり神から与えられた自分の賜物があるので、人それぞれの生き方があります。」(7節新改訳二〇一七)

パウロは助言をしつつも、神が与えたライフスタイルが人それぞれにあることも認めています。助言をする側は、神がそれぞれの人生に関わられていることを認めて、自分の助言を押し付けないように気をつける必要があります。助言を聴く側も、神から与えられた自分の賜物があることを認めて、助言に振り回されるのでなく、神のみこころを自ら求める姿勢が必要です。

1コリント 6:1-20

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(6:20)

私たちのからだは、イエス様の血潮で贖われたと言います。価値があると言います。聖書は禁欲生活を勧めているのではなく、正しく用いることを勧めています。「聖霊の宮」として、私たちの体を通して人々が神を見ることができるような生活を心がけなさいと言います。それは、つまり、私たちの体を管理するということです。やがて天国に行くまでのものだからと、自分の体をいい加減に扱うことは、聖書が教えている内容とは反します。適度な食事、適度な運動、適度な休養も、聖書が私たちに求めている内容です。パウロは、

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。」

と訴えます。イエス・キリストの十字架の死は、私たちのこの肉体のためでもあったということを心に留める必要があります。

1コリント 5:1-13

「私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。」(5:9,10)

世捨て人というのは、聖書的ではありません。私たちの役割は、この世に生き、様々な人たちとの関わりの中で、イエス・キリストの福音を伝えることです。人は心が変えられる必要があります。私たちを内側から変えることができる方、イエス・キリストを紹介することによって、この世界は変わることができます。変えられたクリスチャンたちが、この世界を変えることができます。私たちはこの世界から出て行くことではなく、この世界に出て行くことを勧められています。

1コリント 4:1-21

「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」(4:5)

パウロは、あくまで主が裁かれるのだから、私たちが互いに結論を下すべきではないと主張します。彼自身、自分でも裁かないとまで言います。パウロは、イエス様が、

「あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。」(マタイ7:2)

と言われたことを心に留めていたのだと思います。聖書がはっきり約束していることは、イエス・キリストが再び来られること、そして、すべてを裁かれることです。私たちが知る由もないことも、神はすべてをご存じです。ですから、裁く役割は主にお委ねし、愛する役割に生きましょう。

1コリント 3:1-23

「もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。」(17節)

パウロははっきりと「神の神殿」はキリストを頭とする共同体、「教会」のことだと言います。キリスト教信仰は、神との個人的な関係という部分がありますが、「あなたがた」という共同体の部分もあります。信仰は個人的な側面がありますが、互いを必要としています。「神殿」とは、天と地が重なり合う場所です。キリストの御名によって祈り合う共同体のただ中に、天と地が重なり合います。この地に、神の国がもたらされます。それでパウロは、教会を否定したり、攻撃したりすることに対して警告を発します。新約聖書の時代、教会に集まる意味を見失った人たちがいました。(ヘブル一〇・二五参照)。そのような人たちを意識して、この警告が発せられているのだと思われます。

1コリント 2:6-16

「いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。」(2:16)

今日の箇所をLBでは次のように意訳しています。

「いったい、どうすれば彼らに聖霊がわかるというのでしょう。彼らは、主の思いを知ったこともなく、それを主と論じあったこともなく、また、祈りによって神の御手を動かしたこともないのです。しかし驚くべきことに、私たちクリスチャンは、まさにキリストの思いと心を共有しているのです。」

人はそれぞれ自分の世界観の中で物事を考え判断します。その世界観は自分が育って来た環境や教育などが大きく影響を与えます。聖書に書いてあることに抵抗を感じる理由は、そのような世界観がないからです。もっとも聖書に書いてある世界観は字面を読むだけではわかりません。イエス・キリストを信じ、聖霊を歓迎しなければ理解できない世界があります。

1コリント 1:18-2:5

「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」(1:23,24)

英国人の学者が、米国の学会に出張中、英国対豪州のラグビー・ワールド・カップの決勝が開催されました。米国人はラグビーに興味がないため、テレビ中継はありません。それで、英国が優勝したことを英国にいる娘から電話で聞きました。その喜びを分かち合いたくてホテルのロビーに行きましたが、そこには何も知らない米国人しかいません。それで、早めに学会の会場に行き、ワールド・カップのことを知ってる人を待ちました。最初に来た人は豪州人でした。豪州人にとってはつまずき、米国人にとっては愚かでしょうが、信じる英国人にとっては…。福音は信じる者には神の力です。今日は主の日。共に礼拝を捧げましょう!

1コリント 1:1-17

「さて、兄弟たち。私は、私たちの主イエス・キリストの御名によって、あなたがたにお願いします。どうか、みなが一致して、仲間割れすることなく、同じ心、同じ判断を完全に保ってください。」(1:10)

様々なクリスチャンがいることは素晴らしいことです。形式や儀式を通して神との関係を築く人もいれば、形式ばらない現代風の雰囲気で神との関係を築く人もいます。学術的に聖書を学ぶ人もいれば、デボーション的に聖書を読む人もいます。様々な教会があるので、様々な人々に伝道することができます。問題は、自分とは違うアプローチをしている教会や信仰者を比較し、見下し、裁くことから始まります。自分が絶対と思わずに、互いの違いを認め、キリストにあって一致する姿勢が必要です。

「本質は一致、本質以外は多様性、すべてのことは愛をもって」

が原則です。

ローマ 16:1-27

「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく伝えてください。この人たちは、自分のいのちの危険を冒して私のいのちを守ってくれたのです。この人たちには、私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。またその家の教会によろしく伝えてください。」(16:3-5)

プリスカとアクラは、とても興味深い夫婦です。彼らは新約聖書の六箇所で言及されています。彼らは天幕づくりの仕事をしていて、パウロは彼らと一緒に仕事をしたと言います。彼らはまた、アポロがまだ駆け出しの頃、教え、助けました。彼らはどこにいても、パウロの働きを支え続けました。教会はいつの時代も、彼らのような神によって立てられた、誠実な信徒たちによって支えられてきました。

「主よ、誠実にミニストリーを支え続けてくださっている、すべての信徒の方々に、祝福がありますように。」

※ 本日のSSCの祈祷会は、ユーオーディア30周年記念賛美の夕べに合流するためお休みです。