出エジプト 39:1-40:38

「モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。」(40:35)

神の臨在、神の栄光を現わす「シェキナ」が、ここで「とどまり」と訳された単語です。イスラエルの民の中心には、神の臨在がありました。それが、イスラエルの民を特別なものとしました。今、キリスト教会の中心には、同じように「神の臨在」、聖霊がおられます。聖霊こそ、キリスト教会を特別なものとしているものです。ですからパウロは言いました。

「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23聖書協会共同訳)

出エジプト 37:1-38:31

「これを用いて、彼は会見の天幕の入口の台座、青銅の祭壇と、それにつく青銅の格子、および、祭壇のすべての用具を作った。」(38:30)

幕屋の中で使う器具のもとになったのは、人々が喜んで捧げたものでした。神は喜んで捧げる物を聖めて、主の栄光のために用いてくださるお方です。神ですから、自分の聖所で使うものは特別に天から降らせることも、超自然的に造ることもできたはずです。しかし、一人一人が精一杯、神のために捧げたものを用いられました。神は私たちのそのような心を求められているからだと思います。ですから、教会の一般的な必要は、教会に集う一人一人が喜んで捧げるささげ物を、神は聖めてもちいられます。「達人の手」という詩があります。オークションで安くたたき売られていた古いバイオリンを達人が奏でた時、その値は何十倍、何百倍にもなったという内容です。達人であるイエス様が私を奏でてくださるならば、素晴らしい音が出ます。

出エジプト 35:1-36:38

「モーセは、ベツァルエルとオホリアブ、および、主が知恵を授けられた、心に知恵のある者すべて、すなわち感動して、進み出てその仕事をしたいと思う者すべてを、呼び寄せた。」(36:2)

神のために奉仕することは、強制されて、いやいやするものではなく、イエス・キリストの御業に感動して、救われたことに感動して、自発的に行われるものです。主のために奉仕したいと思う人を、主は呼び寄せられます。神のためにやってあげる、教会のために仕方なくやっているというレベルの話ではなくて、神に仕えさせていただくという姿勢をもつことが重要です。そして、主が授けてくださった賜物を用います。聖書は言います。

「あなたがたは、それぞれ賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を用いて互いに仕えなさい。」(1ペテロ4:10聖書協会共同訳)

今日は主の日。私たちに賜物を与えてくださる主に、共に礼拝を捧げましょう!

出エジプト 33:7-34:35

「それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」(34:29)

私たちはモーセがそうであったように、主との関係の中で輝くことができます。使徒パウロはこう解説しています。

「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(Ⅱコリント3:16-18)

詩人はこう歌いました。

「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」(詩篇34:5)

主に向き、主を仰ぎ見、主との時間をとるならば輝くことができます。主の栄光を反映するからです。

出エジプト 31:1-33:6

「あなたはイスラエル人に告げて言え。あなたがたは、必ずわたしの安息を守らなければならない。これは、代々にわたり、わたしとあなたがたとの間のしるし、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、あなたがたが知るためのものなのである。」(31:13)

神の宮のために様々な器具を作る必要がありました。神は人に仕事を与えました。もっとも神は仕事だけでなく、休みも与えました。六日間は働いても一日は必ず休み、主を礼拝するようにと命じます。神にとって、私たちが何かを神のために作ることよりも、神を礼拝する者になることのほうが重要です。実際、主にある安息を忘れて働き続けるならば、私たちの心は荒れていきます。どんなに良いことをしていても、たとえそれが神のためだったとしても、神との時間をとらずにいるならば私たちの生活は崩れていってしまいます。安息日は、人のために与えられました。神を神として私たちが認識する必要があるからです。

出エジプト 29:1-30:38

「アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、主に対して最も聖なるものである。」(30:10)

「ヨーム・キップール」と呼ばれる「贖罪の日」についてです。人は贖われる必要があることを教えます。ヘブル書はこう解説しています。

「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(9:7,11,12)

出エジプト 27:1-28:43

「あなたはイスラエル人に命じて、燈火用に上質の純粋なオリーブ油を持って来させ、ともしびを絶えずともしておかなければならない。」(27:20)

ともし火を四六時中燃やし続けるだけでも大変なことです。聖書協会共同訳では20節をこう訳しています。

「・・・オリーブの実を砕いて採った灯のための純粋な油を、あなたのところへ持ってこさせなさい。灯を絶えずともすためである。」

オリーブの実を砕いて採った純粋な油を常に供給しなければならなかったと考えると、ともし火をたやさないためにどれだけの労力が費やされたか考えさせられます。そこまでする必要があるのだろうかと思った人もいるのではないでしょうか。聖書は

「絶えず祈りなさい」(Ⅰテサロニケ5:17)、

祈りのともし火を消してはいけないと言います。祈りの姿勢をもって生きることもたやすいことではありません。しかし、あらゆる努力をして祈りの姿勢を崩さないで生きることは意味があります。

出エジプト 25:1-26:37

「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(25:8)

LBではこの箇所をこう訳しています。

「わたしがイスラエルの民の中に住めるよう、聖なる住まい(幕屋)を造りなさい。」

ヨハネの福音書にはこう書いてあります。

「ことばは肉なる人となって、われわれの間に幕屋を張った。」(1:14岩波訳)

ですから、私たちが幕屋を造るのではなく、イエス・キリストが受肉と十字架の御業によって幕屋を張られたことを信仰をもって受け入れることが大事なことです。それから、今、キリストの見える体である地域教会を建てあげていくことは大切なことです。キリストの御名によって集まるそのただ中にキリストはおられると言います。また、詩篇22篇にはこう記されています。

「イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(3節)

私たちが賛美を神に捧げるそのただ中に聖なる住まいが造られ、神の臨在が満ち溢れます。

出エジプト 23:1-24:18

「あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、主の家に持って来なければならない。」(23:19)

聖書は私たちに残り物ではなく、初穂の最上のものを主に捧げるように命じています。ちいろば先生(榎本保郎師)はこう言います。

「よく教会の礼拝のとき、献金の祈りの中で『このわずかなものを』と祈る人がある。謙遜な気持ちはわかるが、すべてを見通される神の御前にこのような言葉は不必要ではないかと思う。むしろ、こうした祈りがたえず繰り返されている間に、献金はすこしでいいのだといった思いがどこかに生まれてくるならば、まことに不幸なことである。神がかけがえのないひとり子を賜ったという聖書のメッセージを信じるとは、自分もかけがえのないものを主にささげることである。信仰は神と私たちの間の生きた関係である。そのゆえに、献金は私たちの信仰にとって大切なものである。」

神に最上のものを捧げる姿勢を持つことができますように。

出エジプト 21:1-22:31

「もしその牛が、男奴隷、あるいは女奴隷を突いたなら、牛の持ち主はその奴隷の主人に銀貨三十シェケルを支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」(21:32)

奴隷の値は銀貨三〇枚と言うことです。ゼカリヤ書にこんな箇所があります。

「彼らは、私の賃金として、銀三十シェケルを量った。主は私に仰せられた。『彼らによってわたしが値積もりされた尊い価を、陶器師に投げ与えよ。』」(11:12,13)

神に対し、イスラエル人がつけた値は奴隷の値だったと言うのです。これは

「神の愛に対する罪人の嘲笑的評価の象徴」

です。イスカリオテのユダは、キリストを銀貨三十枚で売りました。(マタイ26:15)つまり、人々はイエス・キリストに、嘲笑的評価を下したということです。イエス・キリストは私たちを愛するがために、そこまでご自身を低くされました。

今日は主の日。私たちをそこまで愛してくださる神に、共に礼拝を捧げましょう!