申命記 9:1-10:22

「イスラエルよ。今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」(10:12,13)

神が私たちに求めていることは何でしょうか?この箇所はかなり明確に記しています。神を恐れ、神のすべての道に歩み、神を愛し、神に仕え、従うことによって、

「あなたが幸せになること」(聖書協会共同訳)

です。ある青年がイエス様にこんな質問をしました。

「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」(ヨハネ6:28)

イエス様は答えられました。

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(同29節)

神が求められていることは、すべて、イエス・キリストを信じることに含まれると言います。

申命記 6:1-8:20

「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(6:4,5)

今日の箇所は「シェマア」(ヘブル語で「聞きなさい」の意)と呼ばれ、人間の側の意思表示であることから、ユダヤ教では、唱える時は額に右手を当て、目を覆って、精神集中することが求められています。疑いをもたずに、命がけで、全力で神を愛するように命じられる厳しい内容ですが、聖書の大事な教えの学習という意義も含まれていて、朝に夕に自分で声を出してこれを唱え、その声が聞こえることが必要とされます。ある律法学者がイエス様に、「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」(マルコ12:28)と尋ねた時、イエス様は、この「シェマア」を引用されました。私たちも日々、声を出して信仰告白をすることも大事なことではないでしょうか。
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

申命記 4:15-5:33

「きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。」(4:40)

旧約聖書の律法と言うのは、本来、イスラエルの民が神との契約の中にとどまるためのものでした。律法を守ることを通して、イスラエルの民はしあわせになり、約束の地に住むことができる契約です。しかし、この後のイスラエルの歴史は、神との契約を忘れ、神の律法に背くものでした。どんなに預言者が忠告しても、聞くことはありませんでした。その結果、契約を破ったイスラエルの民は、この地から捕囚されていってしまいます。私たちは今、イエス・キリストにある新しい契約の中に生かされています。私たちは聖霊の律法、聖霊に導かれていくことによって、契約の中にとどまります。

申命記 2:24-4:14

「しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。」(3:26)

モーセは、四〇年の荒野の旅を経て、今やっと約束の地を見るところまでたどりつきました。モーセが最後に懇願したことは、目的地である約束の地に入って、その地を見ることでした。しかし、主はその祈りを聞き入れてくださいませんでした。主は彼に、『もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。』と言われてしまいました。ちいろば先生こと、榎本保郎先生はこう言います。

「私たちは主から禁じられるまで祈ったことがあるだろうか。そこまで祈った人だけが、祈りの喜びを味わうことがゆるされるのである。」

申命記 1:1-2:23

「主は、あなたがたの不平を言う声を聞いて怒り、誓って言われた。」(1:34)

イスラエルの民が、約束の地まで四十年かかった理由は、

敵でもなければ、迷子になったからでもありません。聖書が伝える理由は

 

不平

 

です。

「そして、天幕(テント)の中でぶつぶつ不平を言いました。」(27節LB)

厳しい状況、失望するような環境に陥る時、私たちは状況を変えることが出来なくても、どう応答するかは選ぶことができます。だから聖書は言います。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」(1テサロニケ5:16-18)

民数記 35:1-36:13

「あなたがたは、自分たちのいる土地を汚してはならない。血は土地を汚すからである。土地に流された血についてその土地を贖うには、その土地に血を流させた者の血による以外はない。」(35:33)

殺人で流された血は土地を汚します。憎しみと復讐の連鎖はこの地を地獄と化します。しかし、神の御子イエス・キリストは、十字架にかかり、その血潮を流されることを通して、この憎しみと復讐の連鎖を断ち切りました。イエス・キリストの血潮は、土地を汚すどころか、すべてをきよめました。イエス・キリストの十字架の御業は、この地を癒やします。キリストにある神の愛と赦しによって、この地は回復します。キリストの福音を伝えることは、この地の回復に参与することでもあります。

民数記 33:1-34:29

「モーセは主の命により、彼らの旅程の出発地点を書きしるした。その旅程は、出発地点によると次のとおりである。」(33:2)

33章は、「何処から旅立って何処に宿営した」という記録が3節から49節まで続きます。なぜ、神はそんなことをいちいち記録するようにモーセに命じたのでしょうか。

第一に、

この記録は私たちに神が私たちの人生の全旅程をご存知であるということを教えてくれます。

そして第二に、

この記録は、神が必ず導いてくださるということを私たちに教えてくれます。

神は私たちの人生の全旅程をご存知であり、どこに宿営するかもご存知です。そして、どこに導くかもご存知です。神は必ず私たちを約束の地に導き入れてくださいます。ですから、たとえ理解できなくても、日々、すべてをご存知な神に信頼し、ついていこうではないでしょうか。

民数記 31:25-32:42

「その分捕ったものをいくさに出て取って来た戦士たちと、全会衆との間に二分せよ。」(31:27)

旧約聖書の戦いに関する記事は難解です。ただここでは、神が戦いに出て行った戦士たちと、戦いにいかなかった人たちと、二分するように言われていることに心を留める必要があります。働く者が報酬を受けることは当然のことですが、分配する責任もあります。富の分配を意識しない資本主義は崩壊します。ダビデも、戦いに行かなかった人に分捕り物を分けないと言った意地の悪い人たちにこう言いました。

「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」(1サム30:23,24)

民数記 29:12-31:24

「八日目にあなたがたはきよめの集会を開かなければならない。どんな労役の仕事もしてはならない。」(29:35)

「どんな労役の仕事もしてはならない」という安息日を守る理由は、神を神とするためです。ヘブル人は、一日は夕から始まると考えます。私たちは眠り、神が働かれます。私たちが目覚める時、神は神の創造の働きに、私たちが参与していくように呼び出されます。私たちは信仰によって、それぞれの働きによって応答します。ですから、まず、すべては神の恵みから始まります。私たちは、私たちが造ったわけではない世界の中で目覚めます。夕、神は私たちの助けなしに創造的な一日を始められます。朝、神がはじめられた一日を楽しみ、分かち合うように、その働きに参与するように私たちを招きます。私たちが眠っている間に、神は素晴らしいことを行われています。私たちの理解をはるかに超えたことが行われています。

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう!

民数記 27:12-29:11

「第七月には、その月の一日にあなたがたは聖なる会合を開かなければならない。あなたがたはどんな労役の仕事もしてはならない。これをあなたがたにとってラッパが吹き鳴らされる日としなければならない。」(29:1)

イスラエルの人たちにとって、荒野での生活を保つために、こなさなければならない多くの仕事がありました。しかしこの章では、聖なる会合を開くことと、仕事を休むことが命じられています。荒野での四〇年間、彼らを肉体的、精神的、霊的に守ったのは、彼らが終わることのない仕事を休んで、集まって主を礼拝する時間を大切にしたからです。現代人も様々な仕事をこなすために時間に追われています。主の日に普段の仕事から離れて、集まって神を礼拝することが、私たちを肉体的、精神的、霊的に守ってくれます。主の日の礼拝を大切にしましょう!