詩篇 54:1-7

「まことに、神は私を助ける方、主は私のいのちをささえる方です。」(54:4)

どんな時でも、どんな状況でも、神が自分を助ける方であることを告白することは大切なことです。「まことに」と訳された言葉は、一般的に「見よ」と訳される言葉です。聖書は、問題に目を向けるのではなく、私たちを助け、支えてくださる神を見るように訴えます。神に目を向けることができるのならば、最後には、詩人と共に賛美することができます。

「わたしは今、神を礼拝する準備ができています。とても準備ができています。神様、ありがとう。あなたはとても良いお方です。」(6節MSG)

神に目を向ける時、私たちの嘆きは確信に変わります。私たちは孤軍奮闘しているわけではありません。神を見上げるならば、神が私たちと共におられ、私たちを助け、支えてくださっていることを知ることができます。

箴言10:31-11:8

「財産は御怒りの日には役に立たない。義のわざは人を死から救い出す。」(11:4)

財産が悪いという意味ではありません。問題は、優先順位の問題です。天国のこちら側では、この世の富で様々なものを買うことができるかもしれません。しかし、天国の向こう側では役にたちません。イエス・キリストにある「義のわざ」だけが、人を救い出すことができます。イエス・キリストの「義のわざ」、十字架の御業を、信仰によって、私たちは受け取る必要があります。聖書は、はっきりと言います。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル九・二七)私たちは皆、やがて神の御前に立つ時がきます。準備は出来ているでしょうか?

詩篇 53:1-6

「愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。善を行なう者はいない。」(53:1)

聖書は一部だけでなく、全体の文脈を通して読む必要があります。今日の箇所に「神はいない」という言葉が出てきますが、前後関係を見れば分かるように、それは、愚かな者が言うことです。実際、「無神論者」になるには、相当な信仰が必要です。ゴミの山からロボットが突然生まれてくることを信じられるほどの信仰が必要です。また、神を否定したからといって、問題が解決するわけではありません。多くの場合、「神を信じない」という人の神観は、聖書の神観とはまったく異なります。「あなたが信じない「神」とはどういう「神」ですか」と尋ねたなら、私たちも信じられない「神」を答えることでしょう。聖書の神は、この天地万物を創造し、統べ治められ、私たちを愛される三位一体なる神です。

詩篇 52:1-9

「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。」(52:1)

私たちはこの世の悪に心を痛めます。悪が勝ち誇っているのを見ると、真面目に生きることが馬鹿らしく思えてしまいます。しかし、神の恵み、真実、あわれみは、いつもあるということに気づく必要があります。この詩の表題はこのようになっています。「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、彼に告げて「ダビデがアヒメレクの家に来た。」と言ったときに」。ダビデは、サウル王から命を狙われていました。アヒメレクの所に逃げたことをドエグが密告しました。ダビデは「安全な場所はどこにもない、誰も信頼することができない」という気持ちになっていたと思います。しかしダビデは歌います。「私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。」「神の恵み」があるように思えないかもしれません。それでもなお「神の恵みは、いつも、あるのだ」と信仰宣言をしていくことが大切です。

詩篇 51:10-19

「あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。」(51:12)

「喜び」はクリスチャン生活のしるしの一つです。「ハッピー」(happy)とは違います。出来事(happening)に左右されるものではないからです。「喜び」は神との関係がもたらせるものです。もっともダビデ王は罪を犯した時、救いの喜びを失いました。罪は神との関係を壊すからです。罪のゆえにダビデ王は神の臨在を感じることができなくなりました。罪は喜びを奪います。しかし、希望はあります。

「もし、自らの罪を神に告白するなら、神は真実な方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9LB)罪を悔い改め、神に立ち返る時、神は救いの喜びを回復してくださいます。「喜んで仕える霊」とは、自発的に神に仕える思いです。神は私たちを喜びで満たし、神の働きに自発的に加わって欲しいと願われています。

箴言 10:21-30

「人を富ませるのは主の祝福。人の苦労は何も増し加えない。」(10:22)

自分が苦労して富を積み上げてきたと考える人は、貧しい人は、苦労が足りなかったから貧しいのだと見下げる傾向があります。苦労して手にしたものを、人は分かち合おうとはしません。しかし、謙遜に、主が祝福してくださったがゆえの富と考える人は、分かち合うことを喜びとします。主を恐れ、祝福となります。神が私たちを祝福される理由は、私たちが祝福の基となるためです。聖書は言います。

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(1ペテロ3:9)

私たちは、神のすべての良きもの、神の祝福を受け継ぐために召されています。

今日は主の日。共にすべての祝福の源である神をほめたたえましょう。

詩篇 51:1-9

「神よ私をあわれんでください。あなたの恵みにしたがって。私の背きをぬぐい去ってください。あなたの豊かなあわれみによって。」(51:1)

詩篇51篇の表題に、

「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに。」

とあるように、この詩の背後にあるのは、2サムエル記12章です。ダビデ王の祈りは、神が恵み深く、あわれみ深い方であるという神のご性質に基づくものでした。聖書は言います。

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)

神は、恵み深く、あわれみ深く、真実で正しいお方ですから、私たちが罪を告白するならば、その罪を赦してくださいます。しかし、罪を軽く扱うことは許されていません。

詩篇 50:16-23

「感謝のいけにえを献げる者はわたしをあがめる。自分の道を正しくする人にわたしは神の救いを見せる。」(50:23)

私たちは神をあがめることもできれば、憎むこともできます。神を憎む人は、「戒めを憎み」(17節)ます。自分中心の人生を歩みたいからです。ですから、そのような人は「神を忘れる者」(22節)です。残念ながら、祈ることを忘れ、聖書を読むことも忘れ、神に感謝することも忘れてしまう人がいます。神を忘れ、滅びの道を進み行くならば、やがて人生は混乱し、自分のことは棚上げにして神を憎むことになります。神を忘れる者と正反対の生き方は、神をあがめる生き方です。聖書は言います。
「心からの賛美は尊いささげ物。それこそ、わたしの栄誉である。わたしの道を進む人は救われる。」(23節LB)

詩篇 50:1-15

「感謝のいけにえを神にささげよ。」(50:14)

神は感謝のいけにえを求めています。

「わたしが求めているのは、真心からの感謝」(LB)

と神は言われます。一八九〇年、アメリカのミシガン湖で、遊覧船が沈没する事故がありました。当時、大学の水泳選手だったスペンサーは、全力で十七人のいのちを救い出しました。長い年月が過ぎたある日、その出来事をトーレー博士が伝道集会でメッセージしました。すると、そこに老人になったスペンサーがいました。説教の後、トーレー博士がスペンサーに尋ねました。「当時、いのちを救われた十七人のうち、何人が感謝を表しましたか。」スペンサーは、ほほ笑みながら答えました。「一人です。」自分のいのちを救ってくれた人に感謝するのは当然なことです。しかし、残念なことに、感謝を忘れて生きている人たちの方が多いのが現実です。神が求めている人は、奇蹟の主人公ではなく、感謝の心をもっている人です。

箴言 10:11-20

「憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。」(10:12)

私たちの人生を破壊するのは憎しみの力です。ハ・ヨンジョ先生はこのようなことを言いました。

「サタンは私たちに憎しみと怒りを植えることによってこの世を地獄にしようとし、神様は私たちの心に愛と赦しを植えてこの世を天国にしようとしている。」

神の御子イエス・キリストは、不当にも訴えられ、嘲られ、十字架につけられました。憎しみを抱いたとしても、決して不思議な状況ではありませんでした。しかし、こう言われました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)

憎しみは憎しみを生み、憎しみの連鎖はこの世を地獄にするだけです。イエス・キリストの十字架と復活は、まさに、この憎しみの連鎖を打ち破るためでした。神の愛はこの世を天国へと変えます。