1ヨハネ 1章

「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。」(1:8-10)

聖書は「すべての人は罪を犯し」(ローマ3:23)たと言います。

義人はいない。一人もいない。」(ローマ3:10)と。

私たちは誰一人「罪を犯したことがない」と豪語することはできません。

イエス・キリストの十字架は私たちが皆、赦しが必要であることを示しています。

神は私たちを裁きたいのではなく、赦しを与えたいのです。

だから、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。

私たちが今求められていることは、素直に神に自分の罪を告白し、神の赦しを受け取ることです。

2ペテロ 3章

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。」(3:9,10)

この世界の終わりに、キリストは再び帰って来られます。

その日は、「盗人のように」とあるように、思いがけない時にやってきます。

明日、その日が来ても私は驚きません。

私たちは、サッカーで言うところのロスタイムに生きているからです。

いつ、終了の笛が吹かれてもおかしくない時代に生きているのです。

神が終了の笛を吹かれます。

イエス様が誕生されてから二〇〇〇年を経た今も、まだ、笛が吹かれていない理由は、神のあわれみです。

ひとりでも滅びることを望まない神は、すべての人が悔い改めることができるように、忍耐されていると言います。

しかし、その日は必ず来ます。

2ペテロ 2章

「しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。」(2:1)

聖書は偽教師の問題を意識するように言います。

異端と呼ばれる間違った教えは、ひそかに持ち込まれます。

その究極的な特徴は、主を否定することです。

イエス・キリストが三位一体の神の御子であることを否定して教えているならば、その人は明らかに聖書的には偽教師です。

私たちにはイエス・キリストが必要であるということを否定するなら、それは、明らかに偽教師です。

偽教師は、イエス・キリストよりも、自分を信頼させようとします。

イエス・キリストよりも組織を優先させ、自分たちの組織のために命をかけさせようとします。

彼らは、「主の権威を侮」(10節LB)り、神を恐れません。

2ペテロ 1章

「私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。」(1:16)

ペテロのメッセージの中心は主イエス・キリストでした。

それは作り話ではなく、彼自身、目撃者であったがゆえに、実体験に基づいていたがゆえに、確信をもって語ることができました。

イエス・キリストは復活され、今も生きておられます。

ですから、今も私たちはイエス・キリストを体験することができます。

イエス・キリストを信じ、受け入れ、求める者に、イエス・キリストはご自身を表してくださいます。

私は賛美の中でイエス様に出会いました。

イエス・キリストは現実のお方です。

1ペテロ 5章

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(5:7)

聖書のメッセージは一貫しています。

神は私たちのことを気にかけておられます。

私たちに関心をもっておられます。

私たちを愛し、私たちを大切に思っておられます。

だから、聖書は言います。

あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して正しい者が揺るがされるようにはなさらない。」(詩篇55:22)

私たちの重荷、私たちの思い煩いを主にゆだねるように聖書は言います。

ゆだねる方法、それは、祈りです。

祈りをもって私たちは神にお任せすることができます。

有名な「いつくしみ深き」の原詩にこうあります。

ああ、私たちは何と平安をよく失うのだろう。

ああ、どんなに必要のない痛みを背負っていることだろう。

祈りをもって神にすべてをもっていかないために
今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。

1ペテロ 4章

「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。」(4:7)

聖書は明確に世の終わりが近づいていることを伝えます。

たとえ世の終わりが来なくても、私たちのこの世での人生の終わりは日々近づいています。

だから聖書は言います。

分別を持ち、身を慎んで祈りなさい。」(LB)

まず、何よりも目を覚まして、祈ること。

それから、愛し合うこと。

愛は多くの欠けた点を補い合います。

もてなし合うこと。

不平を言わず、気持ちよく助け合うこと。

神が託してくださった賜物を用いて仕え合うこと。

それぞれが賜物を受けているのですから」(10節)とあるように、賜物が与えられていない人はいません。

イエス・キリストは再び来られます。

いつ来られても大丈夫という生き方をすることができますように。

1ペテロ 3章

「あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。」(3:15,16)

説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」と聖書は言います。

理由を話せるように学ぶことは大事です。

しかし守りの姿勢になると、過剰な反応をしやすくなることも確かです。

脅威を感じると、人はどんな人の発言も攻撃のように感じ、敵に見えてきます。

ペテロはそんな私たちのことを理解してこのことを書いたのだと思います。

ペテロは、イエス様を捕らえに来た大祭司のしもべの耳を剣で切り落としました。

しかし、イエス様はその耳を癒されました。

ペテロは、そんなイエス様の姿勢をいつも心に留めていたのだと思います。

耳を切り落とさない。

剣を振りかざさない。

怒らない。

「柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって」

1ペテロ 2章

「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。あなたがたは以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、あわれみを受けたことがなかったのに、今はあわれみを受けています。」(2:9,10)

水のバプテスマ(洗礼)を受けてキリスト者となるという意味は、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」となるということです。

暗闇から神の驚くべき光の中に入れられたということです。

神の民とされ、あわれみを受けているということです。

私たちはこのアイデンティティをしっかりと持つ必要があります。

そして、私たちはこの恵みをただ自分のものとするのでなく、一人でも多くの人に告げ知らせる使命が与えられています。

1ペテロ 1章

「彼らは、自分たちのためではなく、あなたがたのために奉仕しているのだという啓示を受けました。そして彼らが調べたことが今や、天から遣わされた聖霊により福音を語った人々を通して、あなたがたに告げ知らされたのです。御使いたちもそれをはっきり見たいと願っています。」(1:12)

旧約聖書と新約聖書の大きな違いは、イエス・キリストの誕生、十字架、復活です。

旧約聖書の預言者たちは、啓示を受けていても、実現を見ていませんでした。

しかし、新約聖書はその実現が描かれていて、私たちはこの新約聖書の時代に生きることができる恵みの中にあります。

これがどんなに素晴らしいことかは、天使たちでさえ見たいと願っていたという表現からも分かります。

天使たちと違い私たちはこの福音の傍観者ではありません。

私たちもまた、福音を告げ知らせる者としてこの地に生かされています。

ヤコブ 5章

「ですから、あなたがたは癒やされるために、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、働くと大きな力があります。」(5:16)

聖書は互いのために祈ることを奨励しています。

なぜなら、祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があるからです。

神は神であり、神はジーニーのように私たちの願いを聞かなければならないわけではありません。

しかし、神は私たちの小さな祈りを用いて大きな御業をなされるお方です。

ですから、聖書は言います。

正しい人の祈りは大きな力があり、驚くほどの効果があります。」(LB)

「正しい人」とは、イエス・キリストを信じる者です。

人はただ、イエス・キリストの十字架の御業によってのみ「正しい人」となることができるからです。

エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると…雨は地に降りませんでした。それから彼は再び祈りました。すると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。」(17節)