黙示録 13章

「ここに、知恵が必要である。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。それは人間を表す数字であるから。その数字は六百六十六である。」(13:18)

「666」は何を意味しているのか?

いろいろ勝手なことを言う人がいますが、これは「不完全数の羅列」です。

完全数の羅列ならば、「777」になります。

7は神を指し、三つ並べることによって、完全な三位一体の神を思い出させます。

沢村五郎師は「制限された不完全数」と言います。

「患難の中にある時、しばしばそれが永遠に続くもののように感じられるものですが、悪の力は必ず666です。」

「獣の数字を数えなさい」と言いますが、偽預言者がどんなに力ある存在に見えたとしても、666、「制限された不完全なものである」ということを忘れてはいけないということです。

その人が誰であるかを知るためではなく、その獣も人間であり「制限された不完全なもの」であることを知ることができるように、数えなさいと言っているのです。

黙示録 12章

「私は、大きな声が天でこう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と王国と、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、昼も夜も私たちの神の御前で訴える者が、投げ落とされたからである。」(12:10)

サタン、その名前の意味こそ「告発者」、責める者です。

サタンは私たちの弱さを知っていて、いつまでも過去の失敗に引きずられるように、私たちの思いを支配しようとします。

イエス様は私たちが解放されるように、私たちのために十字架にかかって死んでくださいました。

私たちは、サタンに惑わされないように、思考を転換する必要があります。

心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12:2)

「心」と訳された単語は、「思考」「考え方」という意味です。

み言葉を蓄え聖書の考え方に転換する必要があるということです。

黙示録 11章

「それから、天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた。」(11:19)

「天にある神の神殿が開かれ、神の契約の箱が神殿の中に見えた」というのは、旧約聖書では考えられない内容です。

旧約聖書では、年に一回だけ、大祭司だけが、いけにえを携えてのみ見ることができた光景でした。

契約の箱が意味しているのは、もちろん、神と人との契約、約束です。

「神の約束は永遠に変わらない」ということを意味しています。

つまりこの箇所が言いたいのは、神は、私たちの王となることを通して、私たちに祝福を注ぎだす機会をひたすら待っておられるということです。

私たちが、神を自分の人生の王として認めることを通して、神は、王として私たちを祝福されます。

また、神の神殿が開かれたということは、神との交わりを意味しています。

天は今、開かれています。

黙示録 10章

「天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造って、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。「もはや時は残されておらず、」(10:6)

ここに聖書の言う神の定義があります。

第一に「世々限りなく生きておられる方」です。

永遠のお方という意味です。

第二に、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造られたお方です。

創造主、造り主です。

ですから、聖書の定義によれば、すべての創造物は神ではありません。

創造した方が神です。

このお方にかけて誓ったというのは旧約聖書のダニエル書12章の内容が反響しています。

彼はその右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方にかけて誓った。」(7節)

神の時に、神の御業は成し遂げられます。

今日は主の日。ともに主なる神に礼拝を捧げましょう。

黙示録 9章

「そして彼らは、地の草やどんな青草、どんな木にも害を加えてはならないが、額に神の印を持たない人たちには加えてよい、と言い渡された。」(9:4)

大患難時代にキリスト者になった者たちに、特別な守りがあることが記されています。

神を愛する者に、神は守りを与えてくださっています。

サタンがそのことを神にこう訴えている箇所があります。

あなたが、彼の周り、彼の家の周り、そしてすべての財産の周りに、垣を巡らされたのではありませんか。あなたが彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え広がっているのです。」(ヨブ1:10)

神の特別な守り、神の特別な祝福が神を愛する者の上にあることを聖書は肯定しています。

神の印は、大患難時代にならなくても、全てのキリスト者に押されています。

気づいていなくても、キリストを信じる者には特別な守りがあります。

黙示録 8章

「それから御使いは、その香炉を取り、それを祭壇の火で満たしてから地に投げつけた。すると、雷鳴と声がとどろき、稲妻がひらめき、地震が起こった。」(8:5)

ここに記されている「香」が意味しているのは、「祈り」です。

「香は聖徒たちの祈りであった。」(5:8)「地に投げつけた」という言葉が意味しているのは、「祈りが答えられた」ということです。

明らかに、「答えられた祈り」とは、今まで、積み重ねられてきた祈りです。

「香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。」(4節)

とありますように、私たちの祈りは地に落ちることなく、神の御前に立ち上り続けています。

そして、神の時に、地に投げつけるように祈りは答えられます。

ですから、私たちはあきらめずに祈り続けることが大切です。

神は確かに聞いてくださっています。

捧げられた祈りは、神の時に、最善の答えで返ってきます。

黙示録 7章

「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」」(7:9,10)

4節から8節に出てくる十四万四千人は明らかにイスラエルの民のことを指しています。

数字は十二の倍数で象徴的です。

しかし、その後、白い衣を身にまとった群衆は、キリスト者を指しています。

この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。」(14節)

とあるように大患難時代にキリスト者になった殉教者たちのようです。

信仰のゆえに命を捨てたその犠牲を神は断じて軽く考えられることはありません。

「殉教者の血は教会の種」と言われますが、神は無駄にされることはありません。

黙示録 6章

「神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(6:17)

「神と子羊の御怒りの、大いなる日」、それは、この世界の終わりの日と言うことです。

この世界の終わりにこの章で述べられているような大患難時代と呼ばれる神の御怒りがこの地上にもたらされます。

この世の一般的な患難と、大患難時代の患難との大きな違いは、神の御怒りか否かと言うことです。

神の御怒りに、誰一人、耐えられる者はいません。

私たちは御怒りを受けるべき者でしたが、ただ、イエス・キリストの十字架の御業のゆえに、神の恵みによって救い出されました。(エペソ2章参照)

つまり、キリスト教会はこの大患難時代の前に携挙されています。

携挙されるから大丈夫と言う話ではなく、その日が来るまでに、私たちは一人でも多くの人に神の恵み、キリストの福音を宣べ伝える使命があります。

黙示録 5章

「すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」」(5:5)

巻き物は6章で封印が解かれます。

18章に至るまでの全体がこの書に含まれていたことでした。

19章から22章までは、この巻き物の封印を解いた結果が記されています。

つまり、この黙示録の中心に、この巻き物があり、この巻き物を理解しないと、ただ多くの騒動が起こり、最後はうまくおさまったというくらいしか分からなくなってしまいます。

巻き物は、単に裁きを意味するのではなく、この地の所有権を証明する権利証書を意味しています。

完全な人であり、完全な神であるイエス・キリストだけが、人類の罪のために十字架で死に、死の力を打ち破ってよみがえられたので、この権利証書を開くことができます。

ユダ族から出たししという表現は、創世記49:9,10に記されるメシヤ預言です。

黙示録 4章

「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」」(4:8)

4章は天上の場面です。

天では神への賛美が永遠に捧げられています。

天使たちが賛美の中で、

「聖なる、聖なる、聖なる」

と三回繰り返している理由は、神は父、子なる神キリスト、聖霊の三位一体なる神だからです。

イザヤ書6章でも同じように天使たちが

「聖なる、聖なる、聖なる」

と三回繰り返しているのはこのためです。

有名な讃美歌66番はこの神学理解が土台となっています。

「聖なる、聖なる、聖なるかな、

み手のわざなる ものみなは、

三つにいまして 一つなる

神の大御名 ほめ奉らん」

三位一体なる神をほめたたえます!