ヨハネ 18章

「イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」」(18:36)

ピラトは当時のローマ帝国を代表しています。

イエス様は「神の国」を代表しています。

イエス様はピラトにこう言いました。

「わたしの国はこの世から出たものではありません。」(直訳)

イエス様がおっしゃられたことは、「神の国の価値観」は「この世の価値観」とは違うということです。

時として私たちは「この世の価値観」が絶対で、揺るぐことのないもののように見えてしまう時があります。

しかし、ローマ帝国も崩壊したように「この世の価値観」は絶対ではありません。

しかし「神の国の価値観」は絶対です。

昔も今もこれからも変わりません。

今も全世界へと広がり続けています。

神の国の価値観を優先できますように。

ヨハネ 17章

「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(17:3)

「永遠のいのち」とは、単なる長さの話ではありません。

なぜなら、悪い状況が永遠に続くなら、それは地獄だからです。

永遠に生きたいと思えるような質が伴わなければ意味がありません。

そのような永遠の質は父なる神とイエス・キリストを知ることだとイエス様は言われました。

「永遠」と訳された単語は「時代」とも訳される単語ですので、「来るべき時代のいのち」と訳してもいいかもしれません。

「来るべき時代」とは、この世界が終わり、すべてが新しくされる神が完全に治められる神の御国です。

この世界が終わる前から父なる神と子なる神イエス・キリストとの関係の中で生きているなら、神の御国の価値観の中に生きているならば、「来るべき時代のいのち」、永遠のいのちが与えられていると言えます。

ヨハネ 16章

「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。」(16:7)

イエス・キリストは私たちのためにこの地に生まれ、私たちの罪のために十字架にかかり、死に、葬られ、復活し、天に昇り、今、全能の父なる神の右に座しています。

イエス・キリストが栄光の御座に今着座している証拠が、助け主、聖霊が信じる者たちのうちに遣わされていることです。

三位一体なる神の第三位格、聖霊の内住は、子なる神、イエス・キリストがいつも生きていて私たちのためにとりなしをしておられる証拠です。

聖霊はキリストを信じる者の内に住んでくださり、私たちを助け、励まし、慰め、導いてくださる神です。
今日は今年最後の主の日。共に主なる神に礼拝を捧げましょう。

ルカ 2:8-20

「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。」(2:10)

この世界のどんなオーケストラよりも、それは素晴らしい音楽だったと思います。

もし、この時の天使たちのオーケストラが動画で残っていたらと誰もが思うと思います。

おびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。『いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。』」(13,14節)

さらに驚くことは、この天使のオーケストラを聞いたのは、宮殿にいた特権階級の人たちではなく、社会からのけ者にされていた羊飼いたちだったということです。

神の愛が届かない人はいません。

神は、「だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(2ペテロ3:9)

すべての造られた者に福音を宣べ伝えていくことができますように。

ルカ 2:1-14

「男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」(2:7)

降誕劇の時、知的障がいをもった子どもが宿屋の主人の役をしました。

彼のセリフは「部屋はありません!」だけでした。

彼は教えられたように「部屋はありません!」と言いました。

すると、ヨセフとマリア役の子どもたちが上手にがっかりした演技をしました。

その姿を見た彼は言いました。

「でも、ぼくのうちには部屋があるから、ぼくの家においでよ。」

イエス・キリストはすべての人の心の扉をノックしています。

誰でもイエス様を歓迎するなら、その人の心の中に来てくださいます。

飼い葉桶がどれだけ綺麗だったかわかりません。

私たちの心も飼い葉桶のような心であったとしても、イエス様を信じ受け入れるならば、イエス様はその場所に来てくださいます。

このクリスマス、一人でも多くの人の心にイエス様が来てくださいますように。

ルカ 2:1-7

「ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」(2:4)

ヨセフはダビデの家系だったので、「身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するため」(5節)ベツレヘムに行きました。

そして、それは神のご計画の中にありました。なぜなら、ミカ書にこう預言されていたからです。

ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」(5:2)

ヨセフたちは住民登録のためにベツレヘムに行きました。

しかし、神には別の計画がありました。

それは、救い主がベツレヘムで、預言されたように誕生させることでした。

私たちも関係がない理由で行ったところで、別の目的があったことを発見することがあります。

神は今も生きて働かれておられるからです。

ルカ 2:1-7

「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。」(2:1)

神のタイミングにはいつも驚かされます。

キリストが生まれる、この時に、ローマ皇帝アウグストゥスは住民登録をするように勅令をだし、人々を登録をするために自分の町に帰るように動かしました。

しかし、実は、すべては神のご計画の中にあり、神の主権によってアウグストゥスもまた動かされていたということです。

歴史を英語ではHistory、神(His)のストーリー(Story)と呼びますが、歴史には神の指紋がついています。

キリニウス(2節)という人物の言及はここだけにしかありませんが、キリストの誕生との関連で名前が出てくることに意味があるのだと思います。

私たちは皆、偶然誕生し、意味もなく存在しているわけではありません。

私たちは神のご計画の中で、正しい時、正しい場所に生まれ、存在しています。

神の目的に生きることができますように。

ルカ 1:76-80

「幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に現れる日まで荒野にいた。」(1:80)

「その霊は強くなり」という後に、「荒野にいた」とあります。

荒野での生活のために神がバプテスマのヨハネの霊を強くされたのか、荒野で彼の霊が強くされたのか、どちらかというよりも、その両方の意味が込められているのかもしれません。

そもそも、どうしてヨハネが荒野にいたか、その理由もわかりません。

エッセネ派との関係を示唆する学者たちもいますが、確かではありません。

一つはっきりしていることは、神がバプテスマのヨハネをその働きのために整えられたということです。

キリストが生まれてくる前に、神がバプテスマのヨハネを整えられたということを私たちは覚えたいと思います。

ルカ 1:68-79

「これは私たちの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ、」(1:78)

曙の光が、いと高き所から私たちに訪れ」というイメージはとても魅力的です。

これは朝の光が差し込む表現ですが、私たちが待ち望むキリストが来られるイメージです。

これは私たちの神の深いあわれみによる。」ということも私たちは忘れてはいけないと思います。

暗闇と死の陰に住んでいた者たちを照らし、私たちの足を平和の道に導く。」(79節)ために、イエス・キリストはこの地に生まれてくださいました。

このメッセージは今も真実です。

イエス・キリストのご降誕をお祝いするということにはこのことが含まれているということを私たちは覚えたいと思います。

ルカ 1:67-79

「主は私たちの父祖たちにあわれみを施し、ご自分の聖なる契約を覚えておられた。」(1:72)

ザカリヤは救い主の誕生を預言し、彼の息子がその道備えをすることを預言します。

幼子よ、あなたこそいと高き方の預言者と呼ばれる。主の御前を先立って行き、その道を備え、罪の赦しによる救いについて、神の民に、知識を与えるからである。」(76,77節)

ザカリヤのポイントは、神が契約を覚えておられるお方であるということです。

神の御約束に変わることはありません。

神は信実なお方です。

今日はアドベント4週目、クリスマス特別礼拝の日です。

神がご自分の契約を覚えておられたことを、私たちはこの世に誕生された神のひとり子、イエス・キリストに見ることができます。

共に主なる神に礼拝を捧げましょう。