詩篇 137篇

「バビロンの川のほとり、そこに私たちは座り、シオンを思い出して泣いた。」(137:1)

詩人は、バビロンに捕囚され、エルサレムから遠く離れた異国の地にいました。

しかし、彼の心はいつもシオンにありました。

シオンはエルサレムにある神殿の丘のことです。

ですから、彼にとってのエルサレムとは、単なる故郷ということではありません。

エルサレムとは、彼らにとって神の神殿がそこにあった神の臨在を意味しているのです。

つまり、エルサレムへの渇望とは、神の臨在への渇望だったのです。

私たちはそのような神の臨在に対する渇望があるでしょうか?

個人的にも神は臨んでくださるお方ですが、イエス様は、わたしの名前によって集まる所にわたしもその中にいるとおっしゃられました。(マタイ18:20参照)

主の臨在を求めて、主の御名によって集まりましょう。

主日礼拝を、祈祷会を大切にしましょう。

主は臨んでくださいます。

詩篇 136篇

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主の恵みはとこしえまで。」(136:1)

「いつくしみ深い」と訳された単語は、英語の「GOOD」にあてはまる「トーヴ」という単語です。

私たちが信じている神は「トーヴ」、善い神です。

私たちは、主に感謝する理由がたくさんあります。

この詩篇ではくりかえし「なぜならば、主の信実の愛(へセド)は永遠だから」(私訳)と理由を述べます。

私たちの神は善い神であり、神の信実の愛は永遠です。

聖書は言います。

「主は遠くから、私に現われた。『永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実(へセド)を尽くし続けた。』」(エレミヤ31:1)

この「誠実」と訳された単語が、今日の箇所で「恵み」と訳された「へセド」(信実の愛)です。

私達を永遠の愛をもって愛される主は、永遠に信実の愛を尽くし続けるお方です。

このお方に感謝を捧げましょう!

詩篇 135篇

「主は、地の果てから雲を上らせ、雨のために稲妻を造り、その倉から風を出される。」(135:7)

聖書の神は大いなるお方、その望むところをことごとく行われるお方。

大自然を創造し、保持される偉大なお方。私たちは、自分のイメージで自分の神を作ってしまっていないでしょうか。

人間が作る神は、「口があってもしゃべれず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、呼吸もしていない」(15-17節LB)神です。

有限な人間が作った神は、有限な人間が考えられる範囲内でしか存在しません。

まことの神、聖書の神は私たちを造られた創造主です。

無から有を生じさせる神です。

たとえ今、暗闇しか見えなくても、「光あれ!」と光を灯すことができる神です。

道が見えなくても、道を造ってくださる神です。

今日は開拓四〇、献堂二〇周年記念礼拝。

今日まで守り導いてくださった偉大なる主の真実に感謝を捧げましょう!

今日はまたペンテコステ。

共に聖霊を求めましょう。

詩篇 134篇

「さあ、主をほめたたえよ。主のすべてのしもべたち、夜ごとに主の家で仕える者たちよ。」(134:1)

「都上りの歌」は、この詩によって完結します。

「主の家」で主に仕え、賛美を捧げることがゴールということです。

ウェストミンスター小教理問答書に、

「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

とあるように、神に栄光を帰す生き方がゴールです。

神に賛美をささげる方法の一つは手を上げることです。

私たちが両手を上げる理由の一つは、降参を表すためです。

絶対者なる神に降参して、すべてを明け渡すことを象徴して手を高く上げます。

私たちの人生には自分の力ではどうしようもないことがたくさんあります。

神の前に両手を上げて、「主よ、あなたに降参します!」と叫ぶ時、私たちは神を神として認め、主なる神をほめたたえているのです。

私たちは主なる神をほめたたえるために生きています。

詩篇 133篇

「見よ。なんという幸せなんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになってともに生きることは。それは頭に注がれた貴い油のようだ。それはひげにアロンのひげに流れて衣の端にまで流れ滴る。それはまたヘルモンからシオンの山々に降りる露のようだ。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。」(133:1-3)

この詩篇は「都上りの歌」と呼ばれる巡礼詩なので、「兄弟たち」とは、エルサレム神殿に集う人々と考えられます。

みんな仲良く、共に主なる神を礼拝することは、良いこと(トーヴ)だと言います。

集まることは、キリスト教が成立した当初から大切にされてきていることです。

信仰は個人的な側面がありますが、集まるということを過小評価するのは聖書的ではありません。

私たちがイエス・キリストにあって集まるそのところに、神はとこしえのいのちの祝福を命じられるとあります。

ここに、人知を超えた神の祝福の世界があります。

詩篇 132篇

「しかし彼の上には王冠が光り輝く。」(132:18)

「主はシオンを選び、それをご自分の住まいとして望まれた。「これはとこしえにわたしの安息の場所。ここにわたしは住む。わたしがそれを望んだから。わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせる。」(13-15節)

とありますが、シオンの丘に建てられたエルサレム神殿は七〇年にローマ帝国によって壊されました。

この約束はどうなってしまったのでしょうか。

イエス様は言われました。

「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイ18:20)

主が「ここにわたしは住もう」とおっしゃられた場所、それが教会です。

神は今、教会を選び、教会をご自分の住まいとして望まれました。

だから聖書は言います。

「教会はキリストのからだであり、すべてのものをすべてのもので満たす方が満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

詩篇 131篇

「イスラエルよ。今よりとこしえまで、主を待ち望め。」(131:3)

詩人は言います。

「今こうして、乳離れした幼児のように、主の前で静かにしています。もう、あれこれと願い事を並べ立てるのはやめました。」(2節LB)

これは、幼児がお母さんの存在が感じられるその所で完全に満足しきっている状況です。

私たちも神の臨在の中で、同じように満足できます。

これが神への完全な信頼へと導きます。

それで詩人は言います。

「イスラエルよ、おまえもまた、今だけでなく、いつまでも静まって主に信頼していなさい。」(LB)

生ける神の臨在は、神への完全な信頼に私達を導きます。

イエス様の臨在の中で私たちは本当の満足を得ることができます。

だから、主にヘリくだり、祈りましょう。

「主よ。私は思い上がったり、横柄な態度をとったりしません。何でも知っているふりをしたり、他の者より自分がまさっていると考えたりすることもしません。」(1節LB)

詩篇 130篇

「主よ。深い淵から私はあなたを呼び求めます。」(130:1)

詩人は深い淵、絶望のどん底にいました。

そんな中で、彼は主を呼び求めました。

詩人は言います。

「私は神に祈る – 私の人生は祈り – そして神が何を言い、何をするか待つ。私の人生は神の前にある。私の主よ。朝がくるまで私は待ち続け、見続ける。」(5,6節MSG)

主を待ち望む、主のみことばを待つとは、神がされるとおっしゃられたことは、神が行なわれると期待して生きていくということです。

神の時に、神の方法で行なわれることを期待することです。

私たちが神に、いつ、どうやってと自分のやり方を押し付けることとは対極にあります。

神を待ち望んで生きていくならば、失望に終ることはありません。

詩人は言います。

「主を信じて希望を持ちなさい。主は恵み深く親切で、両手いっぱいの祝福をかかえて来てくださるからです。」(7節LB)

最高の日は、まだ、これからです。

詩篇 129篇

「さあ、イスラエルは言え。彼らは私が若いころからひどく私を苦しめた。しかし彼らは私に勝てなかった。」(129:1,2)

イスラエルの国はその歴史の初めから諸国民から苦しめられてきました。

しかし、滅ぼされることはありませんでした。

詩人は、そのことを告白するように言います。

使徒パウロもこんなことを言っています。

「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。」(2コリント4:8,9)

なぜなら、「主は正しくあられ、悪しき者の綱を断ち切られた」(4節)からです。

この詩で強調されていることは、神と私たちとの関係です。

神は私たちのためにいつもそこにおられます。

辛かったこと、悲しかったこと、苦しかったこと、失望したこと、その所を祝福の場所として見るとき、痛みは詩の一行となります。

詩篇 128篇

「見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。」(128:4)

健全な主に対する畏れが、祝福を受ける秘訣です。

聖書は言います。

「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。」(箴言1:7)

この詩篇で主を恐れる人の行動として挙げられているのは家族と労働を大事にする人の姿です。

「あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。」(2節)

聖書は自分の手の勤労の実を食べることは幸せなことと教えます。

労働に対する報酬を受けることが、人に満足感を与えます。

神を信頼して正しく生きようと努め、正当な報酬を受けるならば、本当の幸福を体験します。

「これこそ、主を信頼する人たちの姿です。主が天から祝福と喜びを注いでくださいますように。」(4,5節LB)

今日は主の日。共に主に礼拝を捧げましょう。