その現場は仕事帰りの急な坂道を下りきったところにあります。次男は今年16歳になりますが、6歳のある日、その場所で死にかけました。ブレーキの利かない自転車で勢いよくその坂道を下り、ガードレールに激突して地面に叩きつけられたのです。ちょうどその場面を目の当たりにしたドライバーの男性は「正直、死んでしまったのではと思いました。」というほど。救急車の中で意識を失い、傷だらけになった次男の姿を今でも忘れることができません。久しぶりにその場所を家族で通りました。生きててよかったね、と声をかけると次男は「10周年だ」とぼそっとつぶやいたのです。あれから何となく、次男が自転車に乗るのが怖くて少し(かなり?)過保護になってしまいましたが、この春からは我が家から6キロ離れた海抜55メートルの場所にある高校に自転車で通うことになりました。シャロームに集う若者たちそれぞれ、進級、進学、就職と人生の新たなスタートを迎える季節となりました。これからも祈りに覚えていただき、励ましていただければ幸いです。(小山晶子牧師夫人)
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リラのストアライブ
先ほど無事新宿のオアシスでのストアライブを終えることができました。思った以上に人が沢山来てくださって、しかも物凄く近い距離だったのでとても緊張しました。ライブ中メンバーがこの20年以上になる活動を振り返って話をしていたので、賛美しながら、ここまでの歩みを改めて思い起こしました。神様、この場所で私たちが大勢の人々を前に賛美をすることなど、誰が想像したでしょう、と。私たちの未来は、私たちが決めているようで実は全くそうではないのですね。神様が導く、当時には全く想像もできなかった未来の自分を、過去の自分が見つめているような不思議な感覚に包まれました。その過去の自分のそばに、イエス様が共に立っておられるような感覚は、これからも折に触れ思い出すでしょう。これまで共に歩んでくださった主に、これからも従っていくことができますように。そんな祈りを持ってこのライブを行うことができたことを感謝します。お祈りして頂きありがとうございました。
主の栄光だけが光輝きますように!
(小山晶子牧師夫人)
歩きたくなる最近
厳しい寒さから一転、先週金曜日は春一番が吹き荒れ、薄手のコートで十分過ごせる暖かい一日でした。肩をすくめて歩かなくていい気温にほっとした方も多かったのではないでしょうか。わたしもデイからの帰り道、ゆっくり歩いて帰りたくなりました。夕日がちょうど沈むころに帰路に就いたのですが、見事なオレンジと空色のグラデーションに目を奪われました。空は少しずつ表情が変わってゆき、家に着くころにはすっかり日が落ちていました。でもそんな空を星がキラキラと瞬くまで眺めながらの道のりは、何とも言えない幸せな時間でもありました。次男の受験やそのほかいろいろなことに心が落ち着かない日々でしたが、神様の創られた素晴らしい作品はただそれを見つめるだけでわたしを励ましてくれていました。皆さんは毎日の生活で疲れていませんか。御言葉を読む気力がない、と嘆いていませんか。そんなときはただ神様の創造の中に身を置き、味わい、見つめることができますように。今週も神様の恵みの中を歩むことができる幸いを感謝します。 (小山晶子牧師夫人)
〝「禁断」の豚骨イスラエル魅了〟
ちょっと長いタイトルですが、これ、今月23日の朝日新聞夕刊の一面記事の見出しです。非常においしそうな二種類のラーメンも掲載され、宗教的にはタブーでも、それを気にしない世俗派のイスラエル人に大人気!という内容でした。ユダヤ教もイスラム教も豚肉を食すことは禁止していますから、鶏がらスープのラーメンでなく豚骨スープのラーメンがイスラエルに上陸したことにとても驚きました。
イスラエルの地から見れば地の果てにある日本に住む私たちにまでイエス・キリストの福音が届けられ、キリストを信じる者たちが集い、礼拝を捧げていることに神様の御業の素晴らしさを感じます。このイスラエル人のラーメン屋店主は日本で豚骨ラーメンを食べ「味と香りに一瞬で恋に落ちた。本物のラーメンを食べてもらいたい」と語っていました。素晴らしいものをどうにかして伝えたい。その思いはきっと初代教会の人も同じだったのだと思います。命をかけてイエス様の福音を伝えてくださった信仰の先輩に感謝しつつ。(小山晶子牧師夫人)
やきいも
新年始まって早々の先週火曜日の真夜中、突然の嘔気とともにノロウイルスの症状は始まりました。昨年終わりの肺炎で「もうこのシーズンの体調の悪さはあれで終わりさ!」と勝手に思い込んでいたのに、なんということでしょう。つわりを10倍ぐらいひどくした感じで、それが丸一日続きました。ほんの少しの飲み物さえ身体が受け付けてくれないのです。何度自らの胃に手を当てて癒しを祈ったかわかりません。デイにもまた迷惑をかけてしまいかなり落ち込んでいます。あれから三日以上が経ち、ようやく水分を普通にとることができるようになってきました。何も食べられなかったのですが、きょう隣の福祉施設『杜の茶屋』の前で焼き芋が売られていたのでつい買って食べてみました。とてもおいしかったです。まさしく五臓六腑に芋が染渡る感じ。全てが私の身体の栄養となってくれそうです。そんな風に聖書の御言葉が私たちの身体に隅々まで染渡ることを願ってやみません。乾いた信仰に、御言葉の潤いを。焼き芋を食べながらこの言葉がリフレインしています。(小山晶子牧師夫人)
あけてしまいました
なんということでしょう。2017年が明けてしまいました。今年は珍しく元旦が日曜日。新年を始めるにあたって最も良い形のような気がします。今年はどんな一年になるのか、全く予測ができませんが、地に足をつけた信仰生活を心がけていきたいと思います。マイナスに見えることが多いように感じるかもしれませんが、神様の確かなご計画の中で歩んでいることを常に確認し、意識できる日々でありたいと思います。ここまで主が運んでくださったように、これからも主は私たちを運んでくださいます。状況に思いが左右されるような時には、主がペテロに語って下さった言葉を思い出しましょう。
『しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。』
『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』
御言葉を大切に、歩んでいきましょう。祈りはクリスチャンの呼吸、御言葉は食物です。どちらを怠っても飢餓状態になります。この一年を終える時、健康なクリスチャン生活を送った、と私たちみんなが言えることを願っています。
(小山晶子牧師夫人)
詩篇 123篇
「あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。」(1節)
礼拝は神に目を上げることから始まります。神は天の御座に着いておられます。すべての上におられます。信仰の人は神を見上げます。見下げたりしません。神の御子、イエス・キリストは仕える者となられました。しかし、それは私たちが神を利用できるという意味ではありません。神は、人が自分の快適さを保つために命令できるようなしもべではありません。もし、神を理解したいならば、私たちは目を上げる必要があります。権威の場所、聖書のみことばを見上げる必要があります。立ち位置を間違えないように気をつける必要があります。神は神であり、創造者です。人は人であり、被造物の一つです。驚くことは、そんな私たちを神は心にかけ、愛されているということです。週の初めの日、まず、神に目を上げることから始めましょう。
詩篇 106篇
「主は幾たびとなく彼らを救い出されたが、彼らは相計らって、逆らい、自分たちの不義の中におぼれた。それでも彼らの叫びを聞かれた時、主は彼らの苦しみに目を留められた。」(43,44節)
106篇にはイスラエルの民のこれまでの歩みがわかりやすく記されています、神を、時には信頼し、時には裏切り、また悔い改めて立ち返る、といった身勝手な振る舞いに、読んでいるこちらのほうが叱責したくなるような内容です。しかし、神を賛美していたかと思えば次の瞬間平気で不平不満をぶつけるその姿は、よく見ると自分自身の人生でもあることに気づきます。客観的に自分の人生を書き出してみるともしかしたらこの106篇と同じような内容になるかもしれません。だからこそ、今日の箇所は大きな慰めです。
「それでもなお、主はその叫びを聞き、その苦境を思いやりました。」(LB)
神のあわれみをおぼえつつ今日も歩んでいきましょう。
うめの悲劇
ヨブ記 18章
「悪者どもの光は消え、その火の炎も輝かない。」(5節)
ヨブの友人ビルダデは、ヨブが悪いと納得させようとします。LBではこのように訳しています。
「あんたが繁栄しなかったとしたら、それはあんたが悪人だったからだ。炎が消えて当然だ。」
これは、苦難の中にいる人に、何の慰めにもなりません。ビルダデは、「因果応報」という自分の人生哲学を守るために、苦難にあえぐヨブをどん底に落としました。自分の人生哲学を貫き通すことと、苦難の中に落ち込む人を慰めること、どちらが大事でしょうか。イエス様は後者を選びました。真理を曲げたわけではありませんが、ビルダデとは違い、共に泣き、とりなすことを選ばれました。聖書は言います。
「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)